(by みくりや佐代子

愛がなんだ。愛がどうした。

そう言えるだけの威勢があるならばいい。他人がどう言おうと自分の差し出すこれこそが愛なのだと、言い切れるほどの意地があるならばいい。たとえそれがどんなに非常識で、理解されにくいものだとしても。

映画「愛がなんだ」の最も不思議なのは、盲目的な恋に溺れる女性「テルちゃん」を主人公に置きながら、現実のテルちゃんのような「盲目的な恋に溺れている女性」には刺さらないところだ。

そのような恋愛の渦中の女性は何が正常かなどの判断がつかないため、映画の中で悩んだり暴走したりするテルちゃんを見ても決して「これは自分の姿だ」と察することができない。

だからこの映画はむしろ、盲目的な恋からは既に遠ざかっている女性――「盲目的な恋という苦い経験がある女性」に刺さるのだろう。

劇中では、テルちゃんが一人の身勝手な男性に振り回される。けれどテルちゃんは平気だ。彼に恋をしているから。テルちゃんは彼からのメールに一喜一憂し、求められれば飛んで行き、放っておかれればいくらでも待ってしまう。

この映画を見た最初の感想は「軽蔑」だった。ただし、非日常なことではなかった。いくら言ってもダブル不倫をやめなかった同僚、未練ある元彼にお金を貸していた友人。私の周りにも「テルちゃん」はいた。

そんな人を見るのは慣れっこのはずなのに、どうしてここまで軽蔑したのか。それはかつての自分もまたそうだったからだった。

私も昔は「この人は私を好きにならないだろうな」と確信がありながらその人への恋心を諦められないことがしばしばあった。当時は周囲からどんなに忠告されても、異質なのは自分の方だとは決して認めなかった。



人が誰かを嫌う時というのは、相手の中に「自分」を見つけるのではないだろうか。

以前の職場で、とある女性が「育児休暇を長く取りたい」と申し出た。会社の規則では数年取得できるのだが、暗黙の了解で育休は「1年」、あるいは1年未満でも年度初めの4月には復帰すべきという風潮があった。

その「育児休暇を長く取りたい」という申し出に憤ったのは、同じワーキングマザーの先輩がただった。世代によっては育休制度がないこともあり、産後8週で仕事に復帰した人もいた。

彼女らは目を吊り上げて「長く休みたいって言う人は、『逃げたい』『甘えたい』って顔に書いてある」と口々に言った。当時の私は「触らぬ神に祟りなし」と近寄らなかった。

ただ今思うのは、きっと、育児に追われる中で「逃げたい」「甘えたい」と心が叫んでいたのは彼女らの方だったのだ。

逃げたい、甘えたい、と口に出せず乗り越えてしまった人たちは、目の前で「逃げたい」「甘えたい」と言う人の中にかつての自分を見てしまうのだろう。そして、自分が乗り越えたからこそ、他人が乗り越えられないのを許せないのだろう。

日々の中で他者と接する時、きっと私たちはいつも鏡を見ている。



この映画の結末を「盲目的な恋から脱して自分の人生を取り戻す」と前向きに予想していると大きく裏切られることになる。私が軽蔑したテルちゃんは、最後までテルちゃんだった。

テルちゃんなりの答えを導き出したといえるラストシーン。「愛がなんだ」と言い切れるほどの愛と暴走は、難解で不気味で、けれどもなぜか清々しいのだった。

私は思い出した。前述した不毛な恋をする友人とお酒の場で交わした会話のことを。

「たとえば人生を巻き戻せたら、その人とは友達として付き合う?」
「ううん、また恋愛関係になると思う」
「どうして?いいことなんて何もないのに!」
「そんなことないよ。『本当の自分』を出せた相手は彼が初めてだったもん」

今思えば、あの時の私は大きな勘違いをしていた。映画を観た今なら分かる。
きっと彼女は「何かが欠如しているから暴走した」のではない。不毛な恋愛をすることで生活に欠けていたピースが嵌って、エネルギーが爆発したのだ。だから彼女からこの恋を奪ったら、彼女が彼女じゃなくなるんだと。

そう考えると、テルちゃんの弾けるような笑顔がとても魅力的だったことに妙に納得してしまった。一度は軽蔑した彼女の、滑稽なあの笑顔だけはどうしても憎めなかった。

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(C)2019「愛がなんだ」製作委員会
「愛がなんだ」映画.comページ

 

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