【名画再訪】『南瓜とマヨネーズ』~迷子だった私の耳に届いた優しさの道しるべ~

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(by 遠山エイコ

曖昧な物語が好きだ。

悪を懲らしめて正義が勝つとか、恋をして駆け引きをした先の結婚とか、物語に明確な結末はつきものだけれど、エンドロールまで観てもスッキリしない作品もあって、私はいつまでも、そういう物語のことを考えてしまう。

眉間にきゅっと皺を寄せながらパソコンの画面を閉じ、冷めてしまった珈琲を飲みながらモヤモヤを因数分解すると、そこにはてんでばらばらの感情が存在している。苦しいのあとに優しいが押し寄せて、ばかみたいの上を愛おしいが塗りつぶす。映画『南瓜とマヨネーズ』は、そんな物語だ。

ライブハウスで働く主人公のツチダは、ミュージシャン志望の恋人せいいちとの生活を支えるためにキャバクラでも働き、客と愛人関係にまでなる。すべてがせいいちにバレて関係がギクシャクするなか、ツチダは忘れられない過去の男ハギオと再会しのめり込んでいくのだが、私はこれを、今の恋人と昔の恋人のあいだで揺れる女、なんていう簡単な話で片付けたくはない。

ツチダもせいいちもハギオも、この映画に出てくる人物はみんな自分勝手だ。ふらふらとその日暮らしで生きるハギオは言うまでもないが、音楽を手放せないけど仕事もしないせいいちも、「せいいちの音楽のため」と体を売るツチダだってそう。「音楽をしているせいいちを支えている自分」を守りたいからこその自己犠牲であり、せいいちからすればただの押し付けでしかない。

けれどじゃあ、全員自分が一番可愛いクソ野郎だな、と切り捨てることができるのかと言えば、私にはできない。

ツチダが体を売って生活費を稼いでいると知ったあとに部屋を出ていくせいいちには、見たくない現実から逃げ出してしまう弱さがある。バンドメンバーに異を唱えながらも自らの手で道を切り開こうとはせず、抱えた鬱屈を無機質なコンクリートの壁にぶつけることしかできない性格だ。

だけどせいいちは一度だってツチダを裏切らない。例えば自分に尊敬の目を向ける尚美(バンドの新しいボーカルでありグラビアアイドル)に好意を寄せられても、多少目尻を下げこそすれ、どうこうしようという素振りは微塵も見せない。貞操観念のぶっこわれたツチダやハギオがいるこの世界のなかで、そんなせいいちの姿に観客はどこか安堵を覚えるだろう。つまり本作において、せいいちの位置づけはある意味聖域のようなものなのだ。そこには、売れるために自分の音楽を曲げたくはない、という彼の幼さや頑なさも内包されている。

対してツチダはと言えば、せいいちのためと言って体を売ることも是としてしまったり、せいいちとは別れることができないと言いながらもハギオにのめり込んでしまったり、序盤からせいいちを裏切りまくっている。相手への誠実な気持ちが残っている分、なんならハギオよりタチが悪いかもしれない。

しかしツチダは、誰よりもせいいちの音楽を待ち望み誰よりもせいいちの才能を信じていた。音楽に打ち込み音楽に迷うせいいちを一番近くで見守ってきた。それは何よりも真実で大切で、せいいちを追いつめもしたが救いもしたはずだ。

そうして互いに傷つけたり支えたりしあいながら、二人の歯車は少しずつ嚙み合わなくなっていく。

中盤、二人が暮らす部屋でハギオとせいいちが顔を合わせるシーンがある。ちょっとした修羅場になってもおかしくないシチュエーションだが、ツチダは爆笑しながらそれぞれを紹介、せいいちは不自然なほど穏やかに応じる。焦っているのは居合わせた可奈子(キャバクラで働くツチダの同僚)だけ、という異様さだ。ツチダもせいいちもどこかでネジが外れてしまって、自分は何を守りたいのか、どうすれば大切だったものを守れるのか、わからなくなってしまったのかもしれない。

考えてみれば多くの人は普段そんなに簡単に本音を言わないし、自分でも本音がわからなくなることすらある。相反する感情の狭間で、振り子のように行ったり来たりを繰り返して生きている。劇中の彼らを見ていると、人と関係を築く上で確かなものなんて何もない、ということに改めて思い至る。

「自分が何をしているのかわからない」
「なんでこんなになっちゃったんだろうな」

止まらない愚かさと捨てられない誠実さは、どちらも等しく、相手のことも、自分自身をも傷つける。ツチダとせいいちそれぞれの言葉に、狂ってしまった歯車の行く末を思った。

ラストシーン近くで観客はようやくせいいちの歌を聴くことができる。その声は陽だまりのように暖かくて、それこそがツチダが唯一心の底から求めていた光だったのだと知る。映画を観はじめてからずっとざわめいていた私のなかの「あの頃」が声をあげた。ぼろぼろと涙をこぼすツチダはいつかの私自身だった。

人は、迷って、見失って、揺らいでばかりいる不確かな存在だ。覚束ない足元が不安になることもあるだろう。けれどそんなとき、私はせいいちの歌を思い出す。

‟迷子の、迷子の、迷子の、だれかさん”
‟ギターがあるなら歌を歌おう。ギターがなければ手を叩こう”

迷って、見失って、回り道をしたからこそせいいちはこの歌を書くことができた。迷ってもいい。揺らいでもいい。そう言って落ち込んだ背中をせいいちの声が撫でてくれているような気がして、この歌を思い出すと私はいつもほんの少し、背筋がしゃんとする。

人生の迷子になった誰かのことを肯定し、道の先に小さな明かりを灯してくれる。『南瓜とマヨネーズ』は、そんな物語なのだ。

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(C)魚喃キリコ/祥伝社・2017「南瓜とマヨネーズ」製作委員会
『南瓜とマヨネーズ』映画.comページ

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この記事を書いた人

子育てしながらライターやPRのお手伝いなど。邦画やドラマが好きで、推しが命。noteTwitterも。