【エッセイ】腕を組み頬を寄せ合うのが「女の友情」とは限らない

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「ちゃんとお祝いをしたいから会おう」と送ったすぐ後に「忙しくて時間がとれないから繁忙期が終わったら連絡する」と返ってきたラインを見て、これは一体どちらだ、と首をひねった。本当に忙しいのか、それともただ単に今は会う気分じゃないのか。

そんな風に疑ったのは私自身が「忙しい」という口実をよく使うからだった。人に悪意の影を見るとき、それが鏡のように自分を映し出したものであることがしばしばあった。

だから数週間後、彼女から「会おう」と連絡があった日、私は変に疑ったことを心の中で静かに詫びた。そういえば彼女は器用に嘘がつける人ではなかった。

小学生の頃、母にこんな質問をしたことがある。

「お母さんって友だち何人いる?」

どんな返答だったかはっきりとは覚えていないのだけど「大人になったら友達はいなくなる」と、おおよそそのようなことを言われた気がする。私は少しだけほっとした。当時、親しいと言い切れる友人があまりいなかった。

あの頃の母は30代なかば。現在の私とさして変わらない。

いつもの車がマンションの下まで迎えに来た。待ち合わせ時間を必ず守る人だ。ゴルフの打ちっぱなしの時も、飲み会での現地集合の時もそう。

私の重さぶん助手席のシートは沈み、車は颯爽と走り出す。その日はハンバーグの有名店に行く予定を立てていた。いつも綿密にお店を下調べをする彼女のエネルギーには毎回驚かされる。

「せっかく会えるんだし美味しいもの食べたいじゃん」

そう言って彼女が屈託なく笑うのを見ると「会えるのならばゴハンなんて何でもいいよ」という真逆の本音を引っ込めるほかなくて、そんなすれ違いを可笑しく思いながら私は同じ温度で笑った。

計画どおり開店直前に到着し、お目当てのハンバーグ定食はすんなりと注文できた。私たちはお互いに写真を撮り合い、近況を報告し合って、ずっと前から準備していた結婚祝いと手紙も無事手渡すことができた。

ボリューム満点のハンバーグにおなかが限界まで膨れ上がったので、私は彼女のお皿に切れ端を移して代わりに食べてもらった。ぺろりと美味しそうにたいらげる彼女の体格が、私よりも圧倒的にスレンダーなのが皮肉だった。肉だけに。

「ねえねえ、これ今読んでいい?」

そう言って彼女はカバンから先ほど渡した手紙を取り出す。ちょっと考えて「いいよ」と答えた。彼女は黙って、その便箋5枚にもわたる長い手紙を読み始めた。隣にいるのがなんだか照れくさくなってスマホでカメラフォルダを整理するふりをした。

この時ふと、かつて母から聞いたあの言葉が蘇った。

「大人になったら友達はいなくなる」。たしかに年を重ねるにつれてだんだんと連絡を取る人は減っている。

けれどこうして今、時々顔を合わせては他愛もない話をする20年来の友人がいる。その人との思い出を連ねるだけで便箋が足りなくなるような相手が。

「女の友情」の描かれ方には長い間不満があった。少女同士が腕を組み頬を寄せ合う、同性愛に近いような友情の描かれ方を「美しい」とする映画が信用できなかった。体に触れ合うような友人は私にはいなかったし、それを親密さの度合いとして測ることに違和感があった。

だからこそ、こうして隣にいられる人との関係を「大切なものだ」と大声で叫びたいと思った。私たちには他人がジャッジするだけの目に見える親密さはなくとも、長い付き合いの中で自然と培われた結びつきがある。その証拠に、私は手紙を書きながら予測していたのだ。「きっとあの子、私が目の前にいても平気で『今読んでいい?』と言うだろうな」と。

私の知る友情の正解が、今目の前に広がっているような感覚だった。

長い手紙を読み終えて、彼女は最後の一文に大きく笑った。「オチがおもろい」と言い、「本当にありがとう」と手紙を仕舞う。そしてそれ以上お互いに何も言わなかった。きっとこれが「私たちの形」なのだった。

あれから2ヶ月、彼女とは会っていない。何かあれば「話を聞いてほしい」と沈んだ声で電話がかかってくるだろうから、すべてが順調な証拠だ。グルメな彼女だから週末にはパートナーと美味しいお店を巡っているのだろう。おいしい~と満足そうに頬張っているのが目に浮かぶ。だからこうやって連絡が来ない少しの寂しさもまた、私たちの友情にはよくある光景の一つなのだった。

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画像:y*************************mさんによる写真ACからの写真

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