【名画再訪】『しあわせのパン』~私にとってのカンパニオ〜

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(by 碧月はる

パンの焼ける匂いは、人をしあわせへと導く。小麦の香ばしさとバターの芳醇な香り。思わず深呼吸をする頃には、すっかり心を手招きされてしまっていて、足は自ずとパンを頬張る瞬間へと向かっている。

私には、年の離れた二人の息子がいる。二人ともにパンがすきで、長男のお気に入りはメロンパン、次男のお気に入りはクリームパンである。パンを食べるのもすきなら、パンのお話を読むのもすきだ。長男はすでに中学生となり、膝の上で絵本を読みきかせる年齢ではなくなった。しかし次男はまだまだ幼く、おいしいパンを食べたあとは決まってとある絵本をいそいそと持ってくる。エリサ・クレヴェン作、江國香織翻訳の『おひさまパン』。

「おかあさん、よんで!」

そう言って私の膝にちょこんと座る次男の頬は、彼が喜び勇んで頬張ったクリームパンのようにまあるく、ぴかぴかと光っている。

おいしいパンを食べたとき、私自身も必ず思い出す作品がある。それが、『しあわせのパン』だ。

この作品は、原田知世、大泉洋が主演を務め、2012年に映画として公開された。監督、脚本は三島有紀子。映画の撮影後に書き下ろされた小説もお気に入りで、繰り返し愛読している。

原田知世演じる「りえさん」と、大泉洋演じる「水縞くん」は、北海道の月浦で宿泊も兼ねたオーベルジュのカフェを営んでいる。店名は、『cafe mani(カフェ・マーニ)』。

映画の魅力は多々あれど、私が最も惹かれるのは二人の語り口だ。もう本当に、ひたすらに穏やかでやさしいのだ。タライに張った水で一緒に野菜を洗う。りえさんが珈琲を丁寧に淹れる。一つのパンを半分にちぎって手渡す。どれもこれも、日常のごくありふれた風景だろう。突出したエピソードでもなければ、感情を激しくかき乱されるシーンでもない。だがそこに、普遍的であるが故のどっしりとした幸福が滲み出ている。

マーニには、ちょっぴり風変わりな客人が時折訪れる。恋人に沖縄旅行をすっぽかされてやけくそになっている香織さん。ママが作ったカボチャのスープを恋しく思っている未久ちゃんと、そのパパ。吹雪の日に「月を見に行く」と言った年配の阪本夫妻。みんなそれぞれ自分にしか背負えない荷物を抱えていて、その重さにへとへとになり、ふらりと訪れたマーニで束の間の休息を得る。人と人は寄り添い、支えあって生きていける。それでも、誰かが肩代わりをするわけにはいかない荷というものが、人にはある。

北海道は、夏と冬の風景ががらりと変わる。ぴかぴかと光る夏野菜の彩りから、一面が白と灰色で覆われる厳しい雪原へ。大自然のなかで生きていくというのは、未経験の人間が想像する以上の厳しさを伴う。

寒さに凍えそうなとき、人は誰しも温もりを求める。ほっこりとした巣穴があれば、一時そこに身を寄せて、温まりたいと願う。カフェ・マーニは、人々にとってそういう居場所であると思う。

変わらないもの。いつ行ってもそこにあり、羽根を休められる場所。そういうところがあれば、人は案外生きていけるのかもしれない。そこにしあわせのパンと珈琲の香りが漂い、ゆったりと微笑む誰かの笑顔があれば、尚更。

「おかあさん、おいしいね」

「うん、美味しいね」

次男がパンを頬張るとき、その顔がくしゃっと緩む。そんな彼を見て、私と長男は顔を見合わせて声を出さずに笑う。

しあわせだね。

みんながそう思いながら、でもそれを言葉にするのは何だかもったいないような気がして、心のなかだけに留めている。そんな時間があるから、私はいつだって笑えるし、泣いても泣きやむことができる。

誰もが誰かのマーニになれる。夏の避暑地のような、冬の巣穴のような、ほっと息をつける場所は、案外すぐ近くにあるのかもしれない。人が本来帰りたい場所は、土地ではなく“ひと”なのだから。ぱりっと焼けたパンの皮をちぎり、「はい」と微笑んで手渡せる誰かがいるのなら、その人があなたにとっての「カンパニオ」に違いない。

「カンパニオ」とは、パンを分けあう人々、という意味。つまり、「仲間」である。水縞くんは、それこそが「家族の原点だ」と言った。

疲れ果てて心がぎしぎしと音を立てているとき、私はマーニに行く。そして、思い出すのだ。私にとってのカンパニオと、その温もりを。

「かんぱーい!」

三つにちぎったパンをこつんとぶつけて、同時に口に頬張る。二人の息子たちはこれからどんどん大きくなり、いつしか次男も私の膝には乗らなくなるだろう。それでいい。そうして旅立っていく彼らを、私は見守りたい。

旅の途中で疲れた彼らがふらりと立ち寄ってくれたら、そのときは濃いめの珈琲を淹れて、おいしいパンを焼こう。そこに立ち込めるしあわせな匂いを吸い込んで、彼らはきっと再び旅立っていく。私はその背中に、水縞くんと同じ台詞を笑顔で言うのだ。

「また来てください。いつでも、うちは、ここにありますから」

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(C)2011「しあわせのパン」製作委員会
『しあわせのパン』映画.comページ

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この記事を書いた人

碧月はるのアバター 碧月はる ライター&エッセイスト

書くことは呼吸をすること。noteにてエッセイ、小説を執筆中。海と珈琲と二人の息子を愛しています。