【名画再訪】『スイス・アーミー・マン』~放屁に誘われる、めくるめく哲学の世界〜

  • URLをコピーしました!

(by 安藤エヌ

人類にとって「人前で放屁をしない」というのは永遠の課題のひとつであるが、一体人類はいつから人前で放屁をしなくなったのか。

なぜ突然このような議題を持ち出してきたのかというと、映画『スイス・アーミー・マン』を観たからだ。この出だしを読んだだけでは本作がどんな映画なのか全くもって想像できないと思うが、いうなれば「放屁というひとつのテーマから哲学の扉が開く」映画とでもいおうか――

いや、ますます意味が分からない。私も観終わった後、しばらく膝を抱えて考え込んでしまった。しかし大真面目に作品を評価するならば、これは傑作だ。人類が文明の行き届かないところで生活するとどうなるのか、「今や友とも師範ともいえる文明のもとで生きてこなければ、人間とはどんな生き物になっていたのか」をメタファー的に描いた大傑作なのだ。

物語は主人公ハンクが不慮の事故で無人島に流れ着く場面から始まる。携帯は圏外、海にSOSのメッセージを流すも見つけてくれる人はなし。絶望して自殺を試みようとした矢先、海辺に何かが打ち上げられていることに気づく。近づいて見ると、それは人の死体だった。そして死体は腹部にたまった腐敗ガスをまき散らし、浮力で海へと還っていく。閃いたハンクは死体に飛び乗り、ズボンを下ろし、首にロープを巻き、水上バイクよろしく尻から噴出するガスを操って無人島を脱出する。

ふたりが次に漂着したのも無人島であったが、どこか人が居た痕跡が残っている。一縷の望みをかけて、ハンクと死体・メニーはありとあらゆる手を使ってサバイヴしていく。メニーの肺は水筒がわりとなって水を貯め、死後硬直した指は火打ち石にもなる。そして、たびたび放屁でハンクを窮地から救う。そう、メニーはスイス・アーミーナイフも顔負けな「万能死体」だったのだ。おまけに意思を持ち、喋るメニーはハンクの孤独を癒し、ふたりは親友のような仲になっていく。ふたりは無事無人島を脱出できるのか、死とは、生とは、放屁とは――。

あらすじを聞いてもピンとこないあなたへ。大丈夫、正常だ。私も終始、わけがわからないまま観ていた。しかしどっこい、この映画、一度観てしまうとなかなか目が離せない。独特なテンポに乗せられるがまま、次第に死体のメニーにも愛着がわいてくる。死んでるのに喋っている不思議など何ら気にもしなくなるのがこの映画の恐ろしい魅力なのだ。

さて、冒頭の議題に戻ろう。「なぜ人は人前で放屁をしてはいけないのか?」そもそも、このルールが作られたのはいつのことで、誰が最初に言い出したのかという話だ。死体のメニーは”死んでいる”から、とにかく無人島の中でやりたい放題、言いたい放題である。セクシーな女の人の写真を見るとあそこが反応してしまい、それが方位磁石になる(頭を打って書いているのではなく事実を話しているまでだ)。

性に奔放で、人間社会のもとではタブーとされている行為でさえ平気でやってのける。そう、ここは無人島で、彼は死体だ。何者にも縛られず自由に生きる(死ぬ)メニーを見ていると、なんと人間社会というのは狭苦しく規律にうるさいのだろうと思えてくる。人間社会で生き、文明のもとで育ったハンクは、メニーと過ごしているうちにだんだんと自我を解放していく。そして、衝撃・痛快のラストへと繋がっていくのだ。

放屁をすることは恥ずかしいことか?

それで何かを失うのか?

もし仮に何かを失ったとして、その先に何があるのか?

無人島というミニマルで、それでいて私たちの知らない文明の息絶えたゾーンの中で「生」を爆発させる「死体」から、私たちはこう教わるのだ。

もっと自分を解放させて生きるべきなのだ、ということを。

コミカルでおぞましい、奇妙でプリティな死体メニーからまさかこんなにも大真面目な哲学に導かれるとは思うまい。真面目なのかふざけているのか、どっちかにしてほしい。大口を開けて爆笑しながら「くだらない」と一笑に付した後にはきっと、どこからともなく神妙な問いが私たちの頭に降ってくる。『スイス・アーミー・マン』とはそういう映画なのだ。

++++
(C)2016 Ironworks Productions, LLC.
『スイス・アーミー・マン』映画.comページ

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

安藤エヌのアバター 安藤エヌ カルチャーライター

日芸文芸学科卒のカルチャーライター。現在は主に映画のレビューやコラム、エッセイを執筆。推している洋画俳優の魅力を綴った『スクリーンで君が観たい』を連載中。
写真/映画/音楽/漫画/文芸