(by 碧月はる

先日、離婚をした。昼過ぎに手続きを終え、別居先のアパートに帰り着いてからの数時間、抜け殻のように布団に横たわっていた。様々な感情が自身の内側を支配していくのを他人事のように感じながら、ぼうっと天井を見上げる。真っ白な壁紙がぼやけていく。気が付いたら、随分長いこと眠っていた。

むくりと起き上がり、ふらふらとキッチンに立って缶ビールを開ける。プシュ、という小気味良い音を聞きながら、冷蔵庫のなかにあった生ハムを取り出し、どっかりと床に座っておもむろにパソコンを開いた。

検索窓に当初から決めていたタイトルを打ち込む。

『ジョゼと虎と魚たち』。

犬童一心監督作品。妻夫木聡、池脇千鶴主演。原作は田辺聖子の小説で、昨年12月にはアニメ映画も新たに放映された。

池脇千鶴演じるジョゼは、産まれつきの障がいで歩くことができない。そんな彼女は「おばあ」と呼ばれる老女との二人暮らし。ひょんなことから知り合った妻夫木演じる恒夫は、戸惑いながらもジョゼに惹かれていく。

私が初めてジョゼと出会ったのは、おそらく16年ほど前のことだ。それ以来、人生の節目に於いて、この映画はいつだって私の隣にあった。失恋したとき。大きな喪失があったとき。結婚が決まったとき。別居したとき。大きく感情が動く出来事があるたびに、この映画を観ては自身の呼吸を取り戻していた。

大好きな台詞がある。

「“帰れ”って言われて帰るような奴は、はよ帰れ」

自分の力ではどうにもならない現実を責められ、思わず恒夫に「帰って、もう!」とジョゼが言い放つ。その言葉を受けて帰ろうとした恒夫の背中に、ジョゼが泣きながらこう言うのだ。

弱々しく背中を叩きながらそう言うジョゼを、恒夫がそっと抱きしめる。恒夫の温もりに安心したジョゼは、そこでようやく「帰らんとって」と本音を溢す。

あまりにも不器用で、あまりにも愛おしい。そんな彼女に、私はあっという間に恋に落ちた。

料理が上手で、本が好きで、強い意志を持ったジョゼ。気が弱く、やさしく、流されやすい恒夫。共に過ごしていくなかで生じる二人の変化。じわじわと覆いかぶさる“責任”という名の重圧。恒夫の迷い。ひっそりとしたジョゼの諦め。様々な感情が交錯していく映画後半、泣きたくなるほどに美しい光景が目の前に迫ってくる。

「海へ行け」

そう言ったジョゼの想いを受けて、恒夫は車を走らせる。辿り着いた海の砂浜で、ジョゼをおんぶして歩く恒夫。きらめく海面の光。貝殻を拾い、足先が濡れ、歓声を上げる二人。その場面を見るたびに、ぐっと喉の奥が詰まる。
美しいものは、何故総じてこんなにも儚いのだろう。

「あんたがおらんようになったら、一人ぼっちで海の底をころころ、ころころ、転がり続けるようになるんやろ」

恒夫の寝顔にそう呟くジョゼの横顔は、とてもきれいだった。あらゆる現実を受け入れて、強かに生きていく。そういう女の顔に、私には見えた。

狭い押し入れとほの暗い乳母車のなかだけで生きてきたジョゼに、恒夫はたくさんの世界を見せた。
青く晴れ渡る空。本物の虎。海。他にも色々。

広い世界を知ること。それは大きな喜びであり、途方もないしあわせである。一度知ってしまったら、もう後戻りはできない。知る前には、もう、戻れない。

この映画を、別れた夫と共に観た夜もあった。ジョゼと恒夫が重なり合うシーンを観ながら、私たちも重なり合った。思い出はいつだって保存に適した色合いに変化する。きれいなものはきれいなままで、汚いものもそれらしく。人は脆く、それでいて案外と強い。

元夫との離婚理由は様々あるが、ものすごくざっくり言うと性格の不一致だ。彼を愛していた日々、それは決して短くはない年月で、まだまだ私のなかにたくさんの色と味を残している。でもそれも、いつかきっと薄れる。

私は、彼から逃げた。全力で、ただ、逃げた。それなのに痛いような気持ちになるのは、私が身勝手だからなのだろう。ジョゼの手を離して泣き崩れる恒夫を責める気持ちになれないのは、私のなかにも恒夫がいるからだ。

『ジョゼと虎と魚たち』。これほど真っすぐで正直な映画は、あまりない。障がいについての描写も多々あるが、これは間違いなく、恋の物語だ。一人の女性と一人の男性が、かけがえのない恋をした。そういう物語だ。

離婚から数日が経ち、ようやく心が凪いできている。次に私がジョゼと会うとき、私はどこで何をしているのだろう。新たな恋をしているだろうか。それとも、一人で静かに暮らしているだろうか。まぁ、そんなのはどちらでもいい。

人は人を想い、欲しがり、傷つけ、傷つき、それでも愛し、ときに別れ、ときに添い遂げる。大事なのは結末じゃない。そのとき、どれだけ互いを想いあえるかだ。

私はもう二度と、元夫を愛さない。しかし、彼に恋していた日々が嘘になるわけではない。一緒に見た海も、共に歩いた砂浜も、重なり合って観た映画の余韻も。すべてがたしかな真実であり、私のなかで生き続ける。

映画のラストで颯爽と車椅子を走らせるジョゼの横顔が、今でも胸に焼き付いている。あんなふうに生きたいと、そう思った。一人でも前を向いて、うっすらと微笑みながら。

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(C)2003「ジョゼと虎と魚たち」フィルムパートナーズ
「ジョゼと虎と魚たち」映画.comページ

 

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