(by 安藤エヌ

昨今、自身の発言によりSNS上で物議を醸している作家のJ・K・ローリングだが、私は彼女の生み出した魔法界とそこに生きる人々を愛している。

『ハリー・ポッター』シリーズは幼い頃から何度も大切に読み返し、企画展で母親にねだってふくろうの羽ペンを買ってもらったりと思い出も多い。私が魔法界――ウィザーディング・ワールドを愛している理由は、そこに揺蕩う「愛の形」が人それぞれで、彼らがその愛を人知れず育み、抱き、そして自分の一部のようにして生きているという人間らしさが垣間見えるからという部分にある。

「愛」というのは人間が生きる上で普遍的なテーマであり、映画でも実に多種多様に(特に、最近の映画では重要な命題として)描かれる。ゆえに現実味を帯びることもしばしばあるが、ウィザーディング・ワールドはマグル(『ファンタスティック・ビースト』の時代ではノーマジ)と呼ばれる、魔法が使えない人間と一線を画して魔法使いが存在している、れっきとしたファンタジーだ。ファンタジーの中に、まるで繊細な絹織物のごとく「人間が抱きうる、まこと人間らしい愛」を描く手腕は、さすがといったところだろう。そんなわけで、作家本人がどんな思考を抱いていようと、私は不可侵領域としてウィザーディング・ワールドを愛しているのである。

なかでもお気に入りなのが『ハリー・ポッター』の時代からおよそ70年前の魔法界が舞台の『ファンタスティック・ビースト』シリーズの第2作、『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』だ。

第1作が、動物学者の主人公ニュートが連れ立つ魔法動物が引き起こすドタバタ劇を描いた子ども向けのファンタジーだとしたら(もちろん、決してそれだけではないのだが)、第2作はぐっと大人の雰囲気が増したダーク・ファンタジーとしての魔法界の魅力を存分に感じられる仕上がりになっている。

先日、降板のニュースが電撃のごとく走り話題となったジョニー・デップ扮する闇の魔法使いゲラート・グリンデルバルドの存在こそ、「正義と悪という明確な線引きは誰にもできない」というすべての人間に共通するテーマを提示してみせている人物であり、彼の信念の強さ、人間としての執着、犯した過去の甘い過ちに対する後悔などという生っぽい感情を見るだけで、心の奥でキャラクタへの愛着が湧きに湧いてしまっている自分がいる。それだけに、そういったキャラクタを演じるに長けたジョニー・デップの降板はとても辛い。なんとかならないものだろうかと、大人の事情の全貌が分からない能天気な私はどうしても希求してしまう。

また、私は今作で主人公ニュートが厄介な事件に関わりたくないゆえに「中立」の立場を貫いていたのを一転させ、「僕はこちら側につく」という台詞を発するシーンを愛してやまないのだが、彼をそうさせた理由もまた、実に私の愛するところのウィザーディング・ワールドらしい理由であり、彼の心の中にあるホグワーツにいた頃の自分と、とある人物との思い出が見せる画の美しさに感嘆のため息を漏らしてしまう。

魔法に満ちた世界では、そこに生きる人々が一等大切にしている思い出こそ、魔法がかかったかのように美しいのだ。

魔法が使えるかそうでないかに拠らず、または魔法という特別な力が備わってしまったばかりに、人への愛情や憎悪などといった原始的な感情を持ち合わせている彼らの姿は、私たちと少なからず遠い存在ではなく、もしかしたらすぐ傍にある世界で生きているのかもしれないという思いを呼び起こさせる。

偉大なファンタジーでありながら、何よりも「人間」を描いているこの物語を、そして彼らの時代から時を越え、小さな子どもたちが大いなる闇に立ち向かう物語へと続いていくそのすべての時間を愛おしいと感じる。この思いは、これからも同じ世代はもちろん、私たちより上の世代ないし『賢者の石』のハリーと同じ年ごろの子どもたちにも、継がれていってほしいと思う。

魔法使いにあこがれるきっかけとなった作品を今日もまた観て、いつまでもこの魔法にかかっていたいと思うのだった。

++++
(C)2018 Warner Bros. Ent. Wizarding World TM Publishing Rights (C) J.K. Rowling (C) Warner Bros. Entertainment Inc.
『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』映画.comページ

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でBadCats Weeklyをフォローしよう!