(by みくりや佐代子

小説を読む前に、安全バーが欲しい。

朝の通勤バスの中でKindle画面を立ち上げ今日読む本を選ぶとき、注意深く「あらすじ」を読み込んだり本のタイトルに「感想」のワードを加えて検索したりと、やたら慎重になってしまう。最近はいつもそうだ。「どこに旅に出るのか」、ゆく先を知っていないと物語に飛び込むことができない。

これまで読んで後悔した本はあまりある。川上未映子「ヘブン」湊かなえ「母性」中脇初枝「きみはいい子」……。誤解なきように述べておくが私はこれらの作家の大ファンである。
ただ昔から、心身への暴力性が高い作品がとにかく苦手で、いじめや虐待をテーマにしたものは自然と避けてしまう。朝の通勤バスの中で悲しい物語を読もうものならその日を閉じる夜中まで鬱々とした気分を引きずることもあった。

それだけ慎重に作品を選び「よし!これなら安全だ!」と判断するも、読み進めるうちにみるみる心が蝕まれていくときがある。そうしているうちは、見知らぬ人から肩を叩かれて「大丈夫。その主人公、最後は幸せになりますから」と誰か耳打ちしてくれないだろうかと本気で考えては、不安を抱えたまま臆病に歩みを進める。

たとえば壮絶ないじめの描写があったとする。すると読んでいる間じゅう「せめてフィクションであれ、フィクションであれ」と願ってしまう。まさかこの物語に書かれていることが過去に実際起きたことで、それも作家が自らの経験をもとに書いているのだとしたら。そう思うと胸が痛くて耐えられない。
かといってこれがノンフィクションだったら?どうして作家は地道な取材と圧倒的な想像力をもってしてこんな酷いことが書けてしまうのだろう?どうしてこんな酷いセリフを思いつくことができるのか!と、作家の筆力に感服しつつ、尊敬と軽蔑が入り混じるのだった。

暴力性の高い描写と同じくらい、受け入れられないものがある。

酷い境遇で生きてきた登場人物が悲しい結末を迎える時、「ひとつだけ救いがありました」という物語のエッセンスのために「妊娠」が使われることがある。

「主人公は命を落としました。けれど恋人が妊娠をしていました。」
「主人公は大事な人を失いました。けれどその人が繋いだ命が残されていました。」

どんなに評価の高い作品でも、この「妊娠エンド」が用いられた時点で私の胸にはふつふつとした怒りが沸き上がってくる。

新たな命が生まれれば、人ひとりの試練や苦痛が相殺されるものだろうか?

私には到底そうは思えないのだ。むしろとても無責任な展開だと感じてしまう。私が本を開き、その物語に触れた瞬間から、私の中にそれぞれの登場人物が生きている。ひどい目に遭ったその人が脳内に確かに存在している。それなのに、その人の心は?失われた命は?ぞんざいに扱われたままで、置き去りにしていくの?

もう取り戻せないのだ。あとから何が誕生しようと、喪失は喪失のままなのである。

そして生まれた命は都合よく解釈され、生きる理由を持たされ、見たことも会ったこともない誰かの代わりに幸せにならないといけない。小説は終わっても、物語は続く。続いてしまう。
だから命をつなぐことを手柄にしないでくれ。お願いだから。

――妊娠というものが全てを打ち消すハッピーエンドにならないということは、創作の中でもっと知られるべきである。

つまるところ、もう私はあてのない旅には出られなくなってしまったのだろうと思う。あらすじと結末が心の平穏をおびやかさないものだと確証がなければ最初の一歩を踏み出すことすらできない。「先の見えないドキドキとハラハラ」という読書体験の醍醐味を、とっくの昔に手放していた。
小説を読む前に、安全バーが欲しい。小説に限らず、漫画でも映画でも。事前に安全性を目視できれば、物語に一日の感情を左右されることもない。

こんなことを考える一方で、えぐみのないものだけを摂取したがる自分の薄っぺらさに辟易もしている。一体どうすれば私は、残酷さから目を背けずに受け止めることができるのか。
答えのない問いを隣に置きながら、それでも足は創作物へと向く。

ただひとつ私なりにぼんやりと気づき始めたのは、いやなもの悲しいものを目の当たりにした時に心を癒してくれるのもまた、創作なのかもしれない。現に今、私はこうして文章を綴り自分と向き合うことで様々な感情を整理し、昇華している。
普段押し込んでいる感受性を作品によって引っ張り出され、「この感情はここにしまっておけばいいのだよ」と心の引き出しの場所を教えられているのだ。

臆病な人は傷つくことを避けて通れない。物語の世界に入り込み傷ついてしまうたびに、感情の片付け方を学んでいる。ともすれば小説を読むという行為は、自分の心をこまめにメンテナンスすることに繋がっているのかもしれない。

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画像提供 by みくりや佐代子

 

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