(by とら猫

体当たりの演技、とはよく言われるけれど、その定義を知りたい方はググったり辞書を引いたりするより、1984年公開の『人魚伝説』を観るのがてっとりばやい。

大河ドラマでデビューを飾った可憐な女優、白都真理は本作において、「体当たりの演技」という表現がぴったりどころか生易しく思えるほど、たがの外れたような体当たりっぷりを見せつけてくれる。

なにせ体当たりすぎて、飛ぶ。ぼかしが。あちらこちらに。

ただ、そのぼかしも『人魚伝説』においては、陰で暗躍するオトナたちが下卑た打算や意図からそろっと潜り込ませるたぐいの消極的なものではない。それはむしろ前向きな、女優としてこのチャンスを逃してなるものか、この映画を作り上げるありとあらゆる一瞬一秒をベストな瞬間に変えてやろう、という白都真理の演技に対する情熱と、信念と、集中力から生まれたぼかしのように思える。

こうやって書くと、なんだか激しい濡れ場がメインのエロチックなドラマに思われそうだが、『人魚伝説』は復讐がテーマの壮絶なバイオレンスである。人魚はどこにも出てこない。

代わりに海女が出てくる。
そう、素潜りで海中のアワビやサザエを捕まえる、あの海女である。海女さんが主役の映画なんて、あまり聞かない。

『人魚伝説』で白都真理が演じる主人公もその海女で、あらすじをざっくり説明すると、最愛の夫を理不尽に殺された白都真理が、手製の改良銛をたずさえ、悪党どもに復讐を繰り広げるというお話だ。

海女が、リベンジする。やくざな男どもに。カスタムメイドの銛で。

監督は日本初の本格的スプラッターホラーとして名高い『死霊の罠』(なんとこのたびブルーレイ化された)や、伝奇ミステリーの秀作『湯殿山麓呪い村』などで知られる池田敏春で、元々日活ロマンポルノを撮っていたせいか、『人魚伝説』にも時折、異様に気合の入った男女の情交シーンが挿し込まれる。

そして白都真理は、そうしたシーンでもまったく臆さず、むしろ相手役の清水健太郎を怯ませるほど、手抜きのない演技を見せる。ひょっとすると、前貼りをつけていないのかもしれない。あるいはつけていたが、芝居に夢中になって縦横無尽にのたうち回るうちに、どこかへすっ飛んでしまったのか。いずれにせよ、ここでの白都真理は股間への気遣いなど毛ほどもなく、ただただ最高の演技のみを追求した結果、ぼかしがスクリーン上で舞い踊ることになったものと察せられる。そうした作為性とはまったく無縁の、純粋きわまりないぼかしを見ていると、ちまたに溢れる「体当たりの演技」などみな、申し合わせの茶番や子どもの遊びに思えてきてしまう。

そう、ぼかしに圧倒されるのだ。私はこんな映画を他に知らない。

それはちょうど、眼前の勝負に集中するあまり、まわしが外れ股間があらわになっていることにも気づかず全力で戦い続ける、土俵上の力士を彷彿とさせる。周りはその無垢なる闘争心に気圧され、魅入られて、「見えてますよ」と忠告すらできない。

『人魚伝説』のぼかしからは、そういった類の矜持や威厳が伝わってくる。

ぼかしだけではない。本作の白都真理は人間がおよそ思いつきそうな「過酷な演技」をすべてこなしている気がする。狂人ダリオ・アルジェントに見初められ、『フェノミナ』でうじ虫プールに浸からされた美少女ジェニファー・コネリーも真っ青になるほど、本作の白都真理は映画を通じて、冷たい海にもぐり、ずぶ濡れになり、殴られ、蹴られ、血まみれになる。どんなシーンやアクションにも、最後の命を燃やすかのような覚悟で臨んでみせる。

なぜだ。なぜそこまでやったのだ。白都真理さん。

『人魚伝説』が伝説のカルト映画として今に語り継がれているのも、この白都真理の神がかった体当たり演技があってこそだろう。冷静に考えなくてもストーリーは突っ込みどころだらけだが、本作ではそうした穴があるからこそ、白都真理がより奔放に羽ばたけるという奇跡が起きている。

濡れ衣を着せられた海女の復讐劇は、どういった結末を迎えるのか。浜で焼いたあわびで腹を満たし、天気すら味方につけながら、オリジナルの改良銛で次々と天誅を下していくその壮絶なラスト15分には、ルールや既成概念に囚われない、いかにもタランティーノが喜びそうな荒削りな映画の魅力がじゃんじゃん迸っている。

そして映画史上、もっとも純粋で情熱的なぼかしを目撃してほしい。

ちなみに監督の池田敏春は、なんという因縁か、本作のロケ地である三重県志摩市沖で没した。早すぎた天才だった。

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(C)1984ディレクターズカンパニー/ATG
『人魚伝説』映画.comページ

 

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