【エッセイ】私は祈りを書いている

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(by 蛙田アメコ

小説を書いていて、時折「どうして書いているの」とか「何を書きたいの」と聞かれることがある。どう答えていいのかわからなくて、あいまいな返答をしてしまうことが多い。けれど、夏になると思い出すことができる。私は「祈り」を書いているのだと思う、たぶん。

死ぬには夏がいい。
何故なら、夏の盛りは世界の終わりに似ていると思うから。分厚い葉っぱをたたえた街路樹に眩しい日が照り付けて濃い影をつくる。ジワジワと蝉が泣き叫んでは沈黙するを繰り返す。灼熱の道路に立ち上る陽炎。眩しい。真昼間、東京の片隅、裏路地。そんな風景を眺めて、「世界の終わりが、こんなに眩しい日だったらいい」と初めて思ったのは私が小学生のときだった。ませたガキだと思うかもしれないけれど、記憶の限りではあのとき私は10才で、「私は将来作家になるんだ」という漠然とした確信だけをよすがに図書館にこもって本ばかり読んでいる可愛くない子どもだった。ビンゴである。どうしてそんな物騒なことを考えていたのかというと、私は少しばかり死について考えることが多い子どもだったからだと思う。

弟が亡くなったのは、私が三才のときだ。亡くなったのは生まれたばかりで、弟は一才を迎えることができなかった。彼が亡くなったのは五月のことで、私がやっと「弟は死んでしまった」という事実を受け入れることができたのがちょうど八月、夏の盛りのことだったのだ。

当然母は傷ついて、父も言葉は少なかったけれども衝撃を受けていたと思う。弟の葬儀にはたくさんの人が来た。けれど、弟を知っている人はいなかった。弟は私が耳を触ると喜んで笑う子で、私は母に促されるままに弟の亡骸の耳に触れた。私が生まれて初めて人間の遺体に触れたのは三才のあの日だったのです。弟が死んで悲しかったかと言われると、よくわからない。たぶん悲しかったと思うし、六月の梅雨の蒸し暑さのなかで私はほっとしていたのかもしれない。弟のことを憎んでいたのだ。子どもじみた話、いままで一人っ子として育っていた三歳児である私は、生まれたばかりの弟に父や母の関心を奪われたような気がしていた。母の見ていないところで、少し意地悪もしてしまった。大きくなっておしゃべりができるようになった弟に謝る機会があったかもしれない。けれど、本当にどうしようもなく取り返しのつかないことに弟は亡くなってしまったのだ。もう償いようがない。焼き場で三ツ矢サイダーを飲んでいたことばかり、よく覚えている。

三歳児にとっての二カ月というのは人生のうち数パーセントを占める期間で、弟が亡くなった年の八月に私は自分が一人っ子に戻ってしまったことを理解した。その後、妹や弟が生まれるまでの二年間、私はずっと弟と死のことを考えていた。いくら家族で楽しく過ごしていてもいつかみんな死んでしまうのだと知ってしまって、両親に連れて行ってもらったディズニーランドで私は大泣きした。夕陽の中でイッツァスモールワールドの巨大オルゴールが聴こえていた。私はずっと死に怯えていて、弟が死なないで済んだ世界のことをたまに考えていた。

それからしばらく経ったある年の夏、土曜の夜に毎週欠かさず観ていた『世界ふしぎ発見!』という世界の風習や歴史を紹介するテレビ番組でノストラダムスの大予言が取り扱われた。1999年の8月に世界は滅亡するのだと知った。死について考えてはメソメソ泣く子どもだった私はひどく怯えて、少し安心した。自分や周囲の人が死ぬことに怯えなくても、どうせ何年後かの夏に世界が終わるのだ。それは素敵なことだと思った。夏の盛りは世界の終わりにうってつけだという考えは、きっとこの時に芽吹いたのだと思う。

「真夏の晴れた日は世界が滅んだような気がして好き。ジリジリ照る日が濃い影を作ってて、陽炎のたちのぼる道路には誰もいなくて、世界が滅ぶのにうってつけの陽気だと思う」

大学生になったある日、私はふと思い出したようにそんなことをネットに書き込んだ。ノストラダムスの大予言は大外れで、結局のところ私は生きて成人したのだ。ちょっと長い文章だった気がするけれど、今思えば数百字程度の短文だったかもしれない。何人かの人が私の言葉に共感を示してくれた。多分に個人的な感傷を含んだ文章を好きだと言ってくれた人のうち一人が、「あなたは自分の中に世界を持っているんだね」と言ってくれた。顔も知らない人だった。驚いたし、嬉しかった。何故だかその言葉をずっと覚えていた。それから一年ほどして私は生まれて初めてお遊びの小説を書き始めたのだけれど、たぶん「自分の中に世界を持っている」という言葉が嬉しかったのだと思う。

いつも小説に「祈り」を書いている。時は流れて私は商業作家になった。この8月末に出版する作品は「子育てもの」だ。

「すべての子どもは、どうか幸せに生き延びて」という、どうしようもない綺麗ごとの「祈り」を込めた作品だ。いわゆるなろうファンタジー。ほっこり可愛いが合言葉。

まぁ、現実ではどうしようもなく子どもは亡くなってしまうし、世界に目をむければもっと悲惨な状況が転がっている。しがないラノベ作家の祈りなんて、クソの役にも立たないことは十分に分かっているのだけれど。

そういうわけで、夏が来るたびに思い出す。
私は「祈り」を書いているのだ。

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画像:Qoooさんによる写真ACからの写真

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この記事を書いた人

蛙田アメコのアバター 蛙田アメコ ライトノベル作家

小説書きです。蛙が好き。落語も好き。食べることや映画も好き。最新ラノベ『突然パパになった最強ドラゴンの子育て日記〜かわいい娘、ほのぼのと人間界最強に育つ~』3巻まで発売中。既刊作のコミカライズ海外版も多数あり。アプリ『千銃士:Rhodoknight』メインシナリオ担当。個人リンク:  小説家になろう/Twitter/pixivFANBOX