【エッセイ】スタジオジブリ作品を劇場で観る、かつての子どもだった私へ

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(by 安藤エヌ

未来の自分がもう一度、あの夏に行けるなんていうことを、18年前に映画館を出た私は思いもしなかっただろう。

6月末から全国劇場にてリバイバル上映が決定されたスタジオジブリ作品。私はその中から『千と千尋の神隠し』を観に行った。本作が初めて上映されたのは2001年。今から19年前だ。19年前……というと、当時の私は9歳。小学校3年生頃、この映画を観たことになる。

上映が開始されるや否や、私は強烈なノスタルジックに襲われた。大好きな久石譲氏の音楽「あの夏へ」が流れる。友達からもらったお別れの花束を手に、ふてくされる千尋。そうだ、私は18年前、彼女に初めて出会ったのだ。

あの頃は頼りない女の子だと思っていたのが、今はとてもしっかりとした芯のある子だと思えるようになった。油屋で懸命に働く千尋。「働くこと」の意義が、昔よりはっきりと分かるようになった。ハクと千尋の間にある「愛」を、子どもの頃の私はあまりよく理解できなかった。けれど、大人になった今なら分かる。――というように、子ども時代に観た『千と千尋の神隠し』と大人になってからスクリーンで観るそれは違い、歳を取ってから改めて作品と向き合ってみると、そこに隠されたメッセージやテーマの輪郭がはっきりと明確に見えるのだった。

映画が進むにつれ、ひとつ気づいたことがあった。それは、映画の細かい内容についてどうにも考えすぎてしまう、ということだった。今の一瞬のシーンには裏にどういう意味が込められているのか、ここのキャラクターの表情はどういった感情を内包しているのか、昔に比べて頭を捻りながら観てしまう自分がいた。

これは大人になってしまったがゆえの弱点、というべきところだろう。心と体を大草原に寝そべるように解放し、ありのままに作品を享受できなくなったということだ。むろん、自然体であるがままに観たものを受け止める力は昔より衰えている。そこだけはやっぱり少し惜しく、ああ、子ども時代に戻りたい、などと思いながら、どうにもならないまでに大人になってしまった自分を少し上から見下ろしているような気分になった。

それにしても『千と千尋の神隠し』は名作である。年月を経ても、その良さは色褪せない。終盤にさしかかるにつれ私の心は遠い故郷の中にあるような感じがして、懐かしさを抱きながらも確かに胸はとくとくと鳴り、それがずっと身体の内側で響いているような感覚がした。特に沼の底の駅まで千尋たちが行くまでの電車のシーンでは、子どもの頃に見て以来大切に胸にしまっていた車窓からの美しい景色がそのままスクリーンに映し出され、とてつもない感動を覚えた。その時、子どもだった自分が隣の席(今は、ひとつ空けないといけないけれど)に座り、一緒に映画を観ているような感覚に陥った。

私はその少女と、映画が終わった後に語り明かしたくなった。どこがおもしろかった?とか、どのキャラクターが好き?とか、かつての私であり今の私であるその少女に話しかけてみたくなった。きっと少女の私は今の私と違う観点で、目で、映画を観ていたに違いない。それを今、もういちど知ってみたくなったのだ。映画館のスクリーンでジブリ作品を観られる、というのは、人生におけるかけがえのない経験だと今なら感じることができるから。

映画館で、昔の自分に出会った。そんなことを言うと、何ロマンチックぶってるんだ、と思われるかもしれない。だけど、本当に『千と千尋の神隠し』は、出会わせてくれたのだ。

そんなまたとない機会に恵まれた今、折悪しく映画館が未曾有の苦境に立たされている。スクリーンを愛する人間としてこれからも自分にできることを模索しながら、今回の経験を忘れず、大切に心に抱いていきたいと思う。

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イラスト by 安藤エヌ

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この記事を書いた人

安藤エヌのアバター 安藤エヌ カルチャーライター

日芸文芸学科卒のカルチャーライター。現在は主に映画のレビューやコラム、エッセイを執筆。推している洋画俳優の魅力を綴った『スクリーンで君が観たい』を連載中。
写真/映画/音楽/漫画/文芸