(by 安藤エヌ)
なんてことのない食事が、大きな気づきをもたらしてくれることがある。食事とはふしぎなものだ。人が生きる上での中枢に近い部分に、根ざしているのではないかと思う。
先日、冷凍で買っておいた鮭のソテーをフライパンで焼いている途中、ふと思いついた。
「もう何日もフレンチを食べていない。フォークとナイフを出して、グラスにサイダーを注いでそれっぽく〝フレンチ流〟に食べてみようか」
思い立ったことはすぐさまやるのが吉、と最近の私は身をもって感じていたので、野菜と共にお皿に盛ったソテーと、それから不ぞろいのナイフとフォーク、サイダーの入ったグラスを食卓に並べてみた。すると、確かにそれっぽくなった。
「いただきます」
フォークで小さく切り分け、焼き上がった鮭を食べてみた。おいしい。これはきっと、ナイフとフォークで食べているからだと思った。お皿もちょっと洒落たものを選んでみたし、添え付けの野菜もフレンチらしさを醸し出している。
喉ごしをよくするためのサイダーは、飲むとすっと喉に通って気持ちいい。グラスの細い持ち手をつまみ、くるくると回してみると、私の気分はゆるやかに高揚した。
そして、あるお店のことを思い出した。そのお店は神楽坂にあるフレンチ料理のビストロだった。仲良しの友達に連れて行ってもらってからというもの、すっかりファンになり、それからは家族も連れて行くようになった。赤と白の、正にと言ったギンガムチェックのテーブルクロスに並ぶ料理はどれも手間ひまがかかっていて、料理を通して作り手のあたたかな愛情が感じられる逸品だった。
あたたかな料理、というものはこういうことを言うのだな、と私はよく、そこで食事をしながら思ったのだった。
あのお店は、今どうしているだろう。ふと、思いがよぎる。世間が混乱し始めてから、お店には一度も足を運べていない。個人経営でやっているお店だと分かっていたからこそ、大丈夫だろうか、と心配になった。
どうか、どうか困っていないでほしい。苦しい思いをしていませんように、と祈った。
きっと大好きなお店を知っている人は今、皆がこう思っているだろう。大好きなお店の料理が食べられなくなってしまったらどうしよう、と。
世界、ないし身の回りの生活というのはほんのわずかなきっかけで変化する。その証拠に、ついこの前お店に行った時には、ここの料理が暫く食べられなくなるだなんて思ってもいなかった。
今しみじみと思うのは、「自分がひときわ思いを寄せるような美味しい料理を食べられる、ということは奇跡に近い」ということだ。出会いも一期一会であれば、出会ってからの過程も、何が起こるか分からない。二度と食べられなくなるようなことだって、起きてもおかしくはない。
まるで人同士のようだ、と思った。私にとって愛するお店の料理というのは、ひとの人生に似た深みを持っている。
強烈な愛おしさを覚え、もう一度あの料理が食べたい、と胸がつっかえそうな気持ちを覚えた。
料理とはふしぎなものだ。何度でも思い返せば去来するその味に、旧知の友人に会ったような気持ちがして心の底から優しくなれる。
家で繕ったなんちゃってフレンチは、私にあのお店への愛情を思い出させてくれた。そしてそこで差し出された、料理という名の愛も。
また、愛を交わしに行きたい。舌の上で交歓する、生きる喜びを味わいに行きたい。
そう思うだけで、心が前向きになっていくのだった。
赤と白の交わるギンガムチェックのように、料理は人と共にあるのだ、と感じたこの頃だった。
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イラスト by 安藤エヌ