(by とら猫

素晴らしいゲームだった。いや作品だった。

こうした素晴らしいタイトルに触れるとき、私はいつも思う。これをゲームと呼んで良いものかと。ゲームの指し示すものが多様化し、教育や医療にも応用されている昨今ですら、ゲームと聞くや脊髄反射的に「子供の遊び」と結論づける人は少なくない。

少なくとも、うちの母親なんかはそうだ。香川のゲーム規制条例が成立してしまう背景にも、因習的な世代のにおいを感じる。

ゲームというメディアの翻訳に携わる者として、私なんかはやっぱりゲームを愛している。子供の頃からゲームが好きだし、自分でもいつかゲームを作りたい。奇しくも今回のコロナ禍によって、ゲームはパンデミックにも強いエンタメであることが証明された。ひょっとすると世界に真の終末が訪れたとき、最後まで人類の心に寄り添ってくれるメディアはゲームなのかもしれない。

まあ、ゲームは電源に依存するという弱点があるので、実際のところは本だと思うが。それでも、ゲームは僅差の二位につける。今後太陽光や、空気で動くようなゲームが開発されたら、一気に本を追い抜くかもしれない。

話がとんでもなく逸れた。

とにかく私が言いたいのは、ゲームをゲームという言葉で括った瞬間、そこに含まれる多彩なアイデアや、技術や、情熱や、感動や、体験が、単なる“ゲーム”として矮小化されてしまうのは釈然としない、ということだ。

『アンリアルライフ』も広義にはアドベンチャーというゲームであるわけだが、その実態は映画を観るような体験に近い。もっとも、ゲームは映画と違ってインタラクティブ的である。

「インタラクティブ」は翻訳するのが厄介な言葉のひとつで、「双方向的」と訳されたりするが、ものすごくざっくり言えば“打てば響くこと”じゃないかな、と私なんかは思う。

映画や小説は原則、与えられたものを観たり、読んだりするメディアだ。そういう意味では一方向的である。テレビもそう。こちらが内容に働きかけることはできない。打っても響かない。

が、ゲームはこちらが打てば響く。ボタンを押せばシャッターが開き、木を揺すればリンゴが落ちる。プレイヤーの選択によって、その後の展開が変わったりする。投げた球が返ってくる。ゆえに双方向的である。

『アンリアルライフ』は、ゲームが持つこうしたインタラクティブ性を実感する上で、うってつけの一作だ。なぜならプレイヤーは「サイコメトリー」という能力を使って、ゲームの世界を文字どおり“さわる”ことができる(偶発的な“ふれる”ではなく、自発的な“さわる”を使っている点にも、インタラクティブなこだわりを感じる)。そしてモノにさわることで、プレイヤーはそこに留まっている記憶を見て、自身に起きていることの真実に迫っていく。こうしたストーリーテリングの手法は、映画や小説では決して為し得ないものだろう。

この“過去をのぞき見る”という行為は、そこに映っている人がなぜ、その時、その場で、そうしていたのか、受け手の好奇心を刺激する。想像を逞しくさせる。過去の断片を拾い集めていくと、やがて記憶と記憶がつながって、想像の中でも時間が流れだす。それまで二次元や三次元的だった想像が四次元的に膨らみ、その先にゲームを解くカギも眠っている。

本音を言えば、もっと色々なモノに触れてみたかった。そのへんに生えている草が、転がっている石が、どんな記憶を持っているのか知って、意味なく訝ったり、戸惑ったり、笑ったり、悲しんだりしたかった。もっとこの世界の息吹に触れたかった。そこは本筋とは関係がなくてもよいから。

もっとも、それは求めすぎというものだ。緻密に描き込まれたピクセルアートは幻想的で美しく、人ならざる住人たちも皆愛らしい。中でも、ハルの相棒である信号機の195がいい。不器用だけれど思いやり深いコメントでもって、全編に漂う不穏なムードを和らげてくれる。195がいなかったら、まったく異なる印象のゲームになっていたかもしれない。

『アンリアルライフ』は、ゲームというメディアの魅力や奥深さを伝える、お手本のような作品だ。そこには映画も、小説も、芸術も、そしてもちろんゲームもほどよく詰まっている。忘れた頃にふと読み返したくなる、自分にとって大切な本のように、本作はプレイした者の心に残り続けるだろう。

ゲームは確かに創りものかもしれない。それでもゲームの中の現実を変えることで、目の前の世界が違って見えてくることはある。救われもする。ゲームはゲームだけの世界で起きているのではない。リアルと関われるのだ。『アンリアルライフ』を最後までプレイして、そんな思いを強くした。

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©2019 hako 生活
『アンリアルライフ』Switch版ページ

 

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