(by とら猫)
人間は適応する。遅かれ早かれ。
悪いことではないと思っていた。むしろ前向きに捉えていた。適者生存という言葉もある。適応とは人間にとって、移り変わりの激しい社会でサバイブしていくためのツールであり、適応があるからこそ、人は先へと進んでいけるような気がした。
けれど、今は適応するのがつらい。適応してしまうのが。またたく間に様変わりした世界を、気づけば空気のように受け入れ、異常を正常に置き換えている自分に、嫌気が差してくる。
最初にそう感じたのは、映画館へ行けなくなってからだ。
社会がこうなる前から巣ごもりが常態化していた自分にとって、映画館は外界とつながっていられる、ほとんど唯一に近い場所だった。外出する時はたいてい「映画を観ること」が前提としてあり、レストランでの食事や、ショッピングモールでの買い物は、どこまでいっても映画の付随品だった。
そんな映画館を奪われてしまい、自分はどうなったか。
適応した。
Twitterのタイムラインでは日々、各地のミニシアターの経営が危ないというつぶやきが流れてくる。中にはかつて足しげく通った場所もあって、とても悲しい。こみ上げてくる罪悪感を紛らわそうと、ほんのわずかな額だけれど、クラウドファンディングで支援もした。
が、やり場のない怒りに満ちた、そうした痛切なメッセージだって、毎日見ていると、だんだん単なる文字の羅列に思えてくる。最初はごく当たり前に悲しかったのに、今では悲しいと思わないと悲しく思えなくなる。
そういった“慣れ”に気づくとき、私はどうしようもない自己嫌悪に襲われる。
感情を、とりわけマイナスの感情を抱え続けるのは、労力の要ることだ。人は永遠に怒ったり、悲しんだりはできない。そして、そうした感情をどのくらいの間自然に保てるかは、おそらく当人と対象との物理的な距離に比例する。いわゆる対岸の火事、というやつだ。
人間に備わっているこうした仕様は、火事の対岸で暮らしている人々が、まずは自分たちの日常に目を向け、健康に生きていくための仕組みなのだろう、とは思う。
けれど、そうやって一方が適応していく間にも、向こう岸ではまだ火事が続いている。かつてそこでしか手に入らなかったったもの――映画館の大きなスクリーンや、店で味わうラーメンからしか得られない感動や興奮といったものが、ゆっくりと炎に飲み込まれていく。
気がつけば、モバイルの小さな画面でも映画を楽しんでいる自分がいた。
そう考えると、適応とは恐ろしいことだ。適応することによって、人はそれまでの現実をなかったことにできる。ファミコンのリセットボタンを押すように、いともたやすく。それまで大切に守られ、愛されてきた文化が、「新たな社会への適応」という名の下に、あっさり洗い流されてしまう。それが火事の対岸にいる人々の暮らしを維持するための代償であるなら、あまりにも悲しい。
家のiPadで映画を観るたび、そんなことを思う。実際のところ自分は火事の対岸にいるようなもので、小さなスクリーンでも映画を楽しめるようになってきている。やがてはそれが当たり前のことになり、むしろそうした感動こそが、映画から得られる標準的な感動として、頭の中で置き換えられてしまうのだろう。
が、今はまだそれに触れられる。映画館の大きなスクリーンや、迫力のあるサウンドから生まれる感動が、頭の中にはっきりと残っている。
そして、映画はきっと戻ってくる。
ならば今の私にできることは、あの興奮や感動を一秒でも長く覚えていられるよう、脳に抗うことだ。適応に耐えることだ。
世界がもとに戻ったとき、すぐにまた映画館へ足を運びたくなるように。