フジファブリックの“赤黄色の金木犀”を聴くたびに思い出す人がいる。
1歳年上の、バイト先の先輩。いい人だったけれど、いかにもきゃぴきゃぴしている感じが、地味な私には少し苦手だった。大学を卒業した後彼女は地元に帰り、もう会うことはないだろうと思っていた。
それから1年ほど経った頃、共通の知人からの連絡で、彼女が亡くなったことを知った。24才だった。
≪僕は残りの月にする事を/決めて歩くスピードを上げた≫
連絡がくる少し前の日、私は“赤黄色の金木犀”を聴きながら、死んだ志村正彦のことを思って「残りの人生で何ができるか」と考えていた。
だから報せを聞いた時、この曲がまっさきに頭をよぎった。そして、彼女の「残りの月」はもう終わってしまったのだ、と思った。
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私がフジファブリックの音楽を聴くようになったのは、志村正彦が死んでからだ。
高校2年生の12月のとある朝、教室へ入るなり、友達が涙目になりながら言った。
「志村さんが死んじゃった」
別の友達がすぐ駆け寄って、2人して半泣きになりながら彼のことを話すのを、私は蚊帳の外で聞いていた。フジファブリックの存在は知っていたけれど曲を聴いたことはなかったし、彼女たちがそこまでフジファブリックが好きだということも、その時に初めて知った。
その日家に帰った私は、YouTubeでフジファブリックを検索して“銀河”を聴いた。ボーカルの男性が、表情の読めない顔と感情の乗らない声で歌う。
≪タッタッタッ タラッタラッタッタ≫。変なメロディ。変な歌詞。変なMV。変な曲、と思った。
それから、“陽炎”、“茜色の夕日”、“Sugar!!”、“若者のすべて”、と立て続けに聴いた。
翌日の学校の帰り、私はツタヤに行って、フジファブリックのアルバムを端から全部借りた。
幸福にも、それまで周囲の人が亡くなる経験がほぼなかった私は、「人が死ぬ」ということは単純に「この世からいなくなる」ということなのだと思っていた。
けれど、先輩が死んでそうではないと知った。誰かが死ぬということは、自分の中にあった「その人の場所」ごと持って行かれてしまうということなのだ。心の中のその人の記憶を蓄えていた場所に触れてみると、そこがいびつにへこんでいるのを感じる。そして、大きかろうが小さかろうが、そのへこみは決して塞がることがない。
フジファブリックの音楽に出会ったのが、志村正彦が死んだ後でよかった。だってそうじゃなかったら、私は志村の死と共に「持って行かれて」しまっただろうから。「志村さんが死んだ」と泣いた友達みたいに。先輩が持っていってしまったみたいに。
≪もしも過ぎ去りしあなたに/全て伝えられるのならば/それは叶えられないとしても/心の中準備をしていた≫
ねえ先輩、死ぬなら、私の知らないところで死んでくれ。そうすれば私は、何年かに一度ふとあなたのことを思いだしては「そういえば元気かな」「今何してるかな」と思っていればよかったのに。
あなたが持って行ってしまったせいで、私はこの曲を聴くたびにあなたが思い浮かぶようになってしまった。心のいびつにへこんだ場所に手が触れては、あなたの「残りの月」が永遠に失われてしまったことを思い知る。
あなたがなれなかった25歳になって、その年ももうとっくに過ぎた。私の「残りの月」はあとどれほどあるのだろうと思いながら、少しだけ足早に歩いていく。
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