【エッセイ】木曜日の夜、ちょうどいい他人に頼りたい

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木曜日の夜にごはんを一緒に食べるのは、決まってちょうどいい他人だ。

電話するよりも顔を見て話したいほど親しみをもっている相手であり、けれど土曜の夜に時間を忘れて話し込みたいほど近しい間柄じゃない。木曜日は、2時間くらいで話し終えて2軒目に行かなくても済むような、ちょうどいい誰かを選んでしまう。

この木曜日は仕事で付き合いのあった人と久々に会う約束をしていた。一時期は頻繁に顔を合わせていた、年齢も少し上の世代の人。とてもちょうどよかった。疲れの溜まっている平日の夜は、近すぎる人とも遠すぎる人とも話すのが負担だった。

その夜、彼女は何を思ったか、パーソナルな話をしてくれた。バツイチであること。再婚をしたのに、結局もうすぐ離婚予定であること。今の旦那さんの、前の奥さんのこと。義理のお母さんのこと。今年に入って心労で体重が一気に落ちてしまったこと。

「なんか話しちゃった」

ひとしきり話し終えた後にぽつりとそう言った。彼女も、わたしくらいちょうどいい人に会いたかったのかもしれない。近すぎず遠すぎず、喋りすぎず黙りすぎず、相手にとってはわたしこそがちょうどいい他人だったのかもしれない。

「病むわー」なんて言葉は今までのわたしにとっては鼻歌みたいなもので、言ったそばから忘れるような無意識の産物だった。

他人の口から出るその言葉も煩わしかったし、とるにたらない自分ごとをネットニュースの見出しみたいにラインしてくる友人はもっと煩わしかった。

ところがどうだろう。本当のつらさというのは、音も立てずに心を侵食する。目で見て分からない。

笑ってるから元気で、泣いているから元気じゃないなんて、そんな単純なものじゃない。点呼の際に大きな声で返事をする子を健康だと決めつけるのは間違いだった。

今日会った人は言った。

「お酒で眠るのって、すごく浅い眠りになるんだって。早く寝つけるようでも、逆に体が疲れるんだって」

ぐっすりと眠れる「質」よりも、早く眠ってしまいたいという「時間」を優先することが私にもあった。どうやら彼女もそうみたいだ、言葉とは裏腹に彼女はワイングラスをハイスピードで空けていく。

自分の脳を自分で騙そうとするなんて、究極の自己防衛だと思う。人を騙すよりよっぽど困難で、けれどよっぽど癖づきやすい。

「今夜はありがとう」と別れ際に彼女は言った。「話を聞いてくれてありがとう」なのか「早く眠れるように酔わせてくれてありがとう」なのか、確かめるすべがなかった。

ガラガラのバスに揺られながら帰路についた。木曜日の夜は決まってこうだ。帰宅ラッシュも過ぎているし、かと言って遅くまで呑むこともないから。
私は自宅の最寄駅の一つ手前で降車して、コンビニで缶チューハイを買って帰った。飲みながら歩きたい気もしたけれど、そんなエモい夜でもないと思ってやめた。それほどに味気ない、特別でもない、日常の切れ端のような夜だった。

帰宅してシャワーを浴び、落とし切れていないメイクを指でこすりながら缶チューハイを空けた。ぷしゅ、と鳴るそれが、心から空気が抜けた音に聞こえた。

今夜はきっとすぐに眠れる。忠告されたにも関わらず自らお酒に寄っていって、手っ取り早く浅い眠りを手招きする。こんな夜を越えていく自分が可哀想で愛しいよ。

明日は会社の飲み会。明後日は休刊日にしよう。そして来る翌日、日曜の夜こそ、身近な誰かに優しくしたい。「じゃ、おやすみ」と日直の挨拶みたいな決まり文句じゃなくて、例えば「夜食にラーメン食べちゃう?」とか「月曜だるいから一緒に午前休とろうよ」とか、そんな軽率な思いやりで、静かに病んでいる誰かをずぶずぶに甘やかしたい。

そして、同じように自分にもそうしたい。きっと優しくされたくて人に優しくしてる、そんなずるさが私にはある。

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画像:写真AC

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