(by とら猫)
「不浄なポルノ」「ホラー」「FBIが乗り込んでくる」など、大喜利めいた辛辣レビューを世界中で量産している『キャッツ』を観てきたが、思ったよりも悪くないじゃん、というのが素直な感想だ。
確かに人面魚みたいなジェリクルキャッツがスクリーンに現れた瞬間、ポップコーンを吹いた。なんか不安になった。色鮮やかで艶めかしいヒューマノイド猫たちがにゃんにゃん踊り狂うさまに、こんなことを言ったら本家『キャッツ』の熱烈なファンに爪だし猫パンチを食らいそうだけど、昨年末に鑑賞した『死霊の盆踊り』がちらと頭をよぎった。
順ぐりに踊りが繰り広げられるフォーマットも似ているし、盆踊りにも猫のダンサーが出てくる。ぜひ(寛大な心でもって)見比べていただきたい。
とはいえ。
地球レベルでの吊るし上げに遭ったつるつるの股間も、最初こそ目を奪われたが、リアルな猫の股間だって、じっさい立たせてみるとあんなものである。むしろ「よく観察しているな」と唸った。幻想的なロンドンの街のセットは文句なく美しいし、特に歌も踊りも火がついたように加速していく中盤以降は、股間のディテールなど気にも留めなくなる。
歌の力は偉大なり。
導入部をばっさり省いたのは、 監督トム・フーパ―の英断だろう。ミュージカルであることを踏まえても、会話のシーンは極端に少ない。オーディエンスが不気味の谷へ転がり落ちてしまう前に、きらびやかな歌と踊りで脳をバラ色に染めてしまおう、という戦略が透けて見える。
これが功を奏している。冷静に考えたら悪夢でしかない世界観へ引きずり込まれ、この熱に浮かされたようなミュージカルに没頭できた。ジェニファー・ハドソンが熱唱する「メモリー」は、猫人間のなりでも胸を打つ。感動は種を越える。
そういうわけで映画は悪くなかった。毛皮を脱いだイドリス・エルバだけは猫のコスプレどころか、全身タイツで街をうろつくマッチョな変態にしか見えなかったけれど、劇団四季まで足を運ぶのは億劫すぎる私のような出不精でも、傑作ミュージカル『キャッツ』の世界を堪能できる意義は大きいと思う。
それでも長年猫と暮らしてきた者として、本作の猫の描き方については、いくつか引っかかる部分があった。以下順に綴っていきたい。
・白猫がいない
主人公のヴィクトリアは「臆病な白猫」と呼ばれているが、その体にはアメショっぽい縞模様が散りばめられている。ならば「白猫」ではなく「白っぽい猫」と呼ぶべきでは。ジェリクルの中に純粋な白猫は見当たらなかった。
・黒猫もいない
白猫はおろか、より一般的な柄であるはずの黒猫もいない。手品猫のミストフェリーズは自身の容姿について、「つま先から頭のてっぺんまで黒」と自虐的に歌うが、その顔には白が混じっている。ごまかすなよ。どちらかというと「ハチワレ」に近い。ジェリクルの中に白猫と黒猫が一匹もいないのは、総頭数を考えるとややアンバランスに映る。なんらかのポリコレ的判断が働いたのだろうか。気になる。
・尻尾がみんなすらりと長い
ジェリクルキャッツは皆、すらりと長く美しいシッポを持っている。が、あれはいささか画一的だ。シッポは猫ちゃんによる個体差が大きい分野で、もちろん短いシッポもあるし、うさぎっぽいだんご様のシッポも、我が家のキジトラ猫のように、“コの字”に曲がった鍵シッポもある。本作のシッポの描き方は「猫ちゃんのシッポはみんな長くてきれい」という先入観や偏見、ステレオタイプを助長しかねず、感心しない。
・三毛猫のオス?
劇中、三毛猫っぽいペアが登場する。三毛はふつうメスだけに見られる柄で、オスの三毛猫は染色体の関係でほとんど生まれない。一説には三万匹に一匹の確率とされ、三毛猫のペアがいてもおかしくはないが、統計上はかなりのレアケースであることを書き記しておく。
・猫はミルク好きか?
劇中では、猫ちゃんが「ミルクに目がない」ことを印象づける演出が多々見られたが、これはじっさい好みによる。ふつうの水のほうを好む成猫は少なくないし、拙宅の茶トラ猫はぬるま湯を好んで飲む。虫食についても個体差が大きい。
と、猫飼い的にはいくつか気になる点はあったものの、異世界のミュージカル映画として『キャッツ』は決して悪くない作品だ。我々人類はもう四十度の高熱にうなされることなく、狂騒的な夢を見て、ついでに感動もできるのだから。
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映画『キャッツ』公式サイト