(by 矢御あやせ

三十年以上生きていて、「絶対に無理だ」と諦めていたことがある。

それが、字が上手くなることだった。

しかし、奇跡という言葉は本当に起きたことがあるから存在する。

現在、アイデンティティともいえた「字が下手な人間である」ことは覆されてしまった。それも、「千五百円と一時間」で。

そう、私は字が上手くなった。それも、以前よりも格段に。

でもまぁ全然だ。世間様から見れば余裕で「字の下手な集落」の人間としてカウントされる。「美文字カースト」で言えばようやっと奴隷になれたというところ。身分低き者である。

しかし、この変化は人生の革命と言っても過言では無かった。

飛べないと思ってた生物がいきなり空を飛んだに等しい。

たとえそれが無様な低空飛行であったとしても、やはり奇跡は奇跡なのだ。

なぜなら、私はこの一生においてあの頃より少しでも字が上手くなるなんてことは絶対に起こりっこないと思っていたから。そう、絶対に。

私は以前から、インターネットに文字を晒すなんてことは恥ずかしくて絶対にできなかった。恥部を晒すようで、実際に恥部で、絶対に絶対に嫌だと思っていたのだ。

それが、今では外食の写真を上げるレベルでぽいぽいと自筆の文字をツイートしている。

では、一体何をきっかけに醜い字が綺麗になったのか。

それは、一本の万年筆がきっかけだった。

ホームセンターで万年筆が三百円で売られていることを発見し、興味本位で購入をした。当時の私は様々なストレスが爆発して浪費が止まらなくなっていた。

きっと、これも「取るに足らない浪費」の一つとして散財の波に押し流されるのだろう。当時はそれぐらいの気持ちだった。

だが、その書き味に惚れ惚れとしてしまった。

そして、魔法のようにするりするりとインクが紙に沁み込んでいき、文字を作る様子を見ていると、どうしても願わずにはいられなくなってしまっていた。

「字が上手くなりたい」と。

この万年筆こそがプラチナ万年筆のpreppy(プレピー)である。

とても書きやすいので、「万年筆? 気になるけどお高いんでしょう?」と購入を戸惑っている人にお勧めだ。

カラーバリエーションも豊富なので、好きな色のものを買ってもいいだろう。

preppyは、ずっと使ってないインクのようにカチカチに固まってしまった私の心をそっと溶かし、紙へと誘ってくれたのだ。「大丈夫、やってみようよ」と。

そして、私は意を決して本屋に向かった。

萩原季実子さんの『誰でも一瞬で字がうまくなる大人のペン字練習帳』のシリーズ作(本屋さんにはそれしかなかった)をレジに運び、A4用紙の表裏一杯に。一時間をかけて「一」「二」「小」「木」と自分の名前を書いたのだ。

当初は「少し位は上手くなれればいいかな」ぐらいに思っていたが、それだけでマジで上手くなってしまった。

私としては、だんだんと字が上手くなる過程を切り売りしてマネタイズする目論見だったのだが、その卑しい心は「誰でも一瞬で字が上手くなる」の前では余りに無力だった。

しかし、その卑しい心を以てしても、起きてしまった奇跡の大きさに唖然とすることしかできなかった。圧倒されてしまったのだ。絶対に字が上手くならないと思っていた常識がたった一時間で覆されたという奇跡の大きさに。

そうして、31年歳までの「字の下手な人の人生」という電車に揺られていた私は、「普通の字の人生」へと乗り換えることとなった。

私が「変わった」のを本格的に実感したのは銀行に足を運んだ時だった。両替が必要だったのだ。

そこで、署名をしたとき、思わず息を呑んでしまった。泣きそうだった。いや、きっと涙を浮かべてしまっただろう。

――私の名前、こんなにうまく書けるようになったんだ

どうやっても不格好で、間抜けな感じにしか書けない自分の名前が昔から大嫌いだった。

だが、勇ましさを含んだ苗字と、柔らかな名前の短い文字に、私は初めて「ステキな名前だ」と感動してしまった。

きっとこれは、老いた後に思い出してしまうような「本当に幸せな瞬間」というものなのだろう。

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