【映画エッセイ】おっさんだって楽しく『天気の子』を観たいんだ

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人はいつからおっさんになるのだろう。

『天気の子』の中で「もう大人になれよ」という台詞を聞いたとき、そんなことを思った。

大人になるタイミングは分かりやすい。遅くとも成人に達したときだ。もちろんそれは便宜上の分類でしかなく、その日からいきなり成熟した精神性を発揮できるわけではないが、少なくとも人はこの日を境に、社会的にはひとりの大人として扱われるようになる。精神的にはまだ幼くとも、大人の振りをして生きていくことを求められる。

それが大人になる、ということだ。

ところが、人がいつおっさんになるかは判断が難しい。大人になるときとちがって、「あなたは今日からおっさんですよ」と公に認められることもない。免許のようなものも発行されない。税金が増えたりもしない。基本的には当人の自由裁量に委ねられる。

わたしが自分の中の“おっさん性”に気づかされたのは、マンションのエレベーター内だった。それまで無邪気に挨拶してきた近所の子供たちが、いつからか怪訝な目を向けてくるようになった。時には慄くような目を。ずっと背を向けてくる子もいた。子猫ですら前より懐きにくくなった。

はっとした。わたしもかつてはそうだったから。家にやってくる親戚以外のおっさんはみんな得体の知れない何かに見えて怖かったし、全員ろくでもない奴らだと勝手に決めつけていた。おそらくエレベーターで乗り合わせた子供も、わが家に突然連れてこられた子猫も、目の前に立っているわたしが異形の存在に見えていたにちがいない。

幼い頃の自分は、知らないおっさんとの接し方がまるで分からなかった。そいつらは完全に別世界の住人で、言葉が通じるかさえ未知数だ。何か言ったら、急に怒られるかもしれない。自分よりも数倍でかい手で、ぶん殴られるかもしれない。だから訳もなく怖かった。

そう考えると、おっさんにはどうも、本人の意思とは関係なく、その場のダイナミズムをネガティブなほうへ捻じ曲げてしまう特性があるのかもしれない。おっさんであることを自覚して以降、わたしはそのことを強く意識するようになった。自分が子供の頃に恐れていたようなおっさんには、なりたくない。だから若い世代が集まる場所へは、足が向かなくなった。自分の中のおっさん性によって、彼らの創り上げている完ぺきなバランスを崩してしまうのは辛すぎる。実際そういったイベントに顔を出したときは、持っているビールを隣の若者のズボンにうっかりこぼしてしまった。

おっさんだめだ。迷惑でしかない。そんな思いを強くした。

そんなおっさんが『天気の子』を観にいくのは、正直気が引けた。客席はおそらく自分よりも若い世代で埋まっているだろう。ジャージ姿に無精ひげのおっさんがふらっと訪れてよい場所ではない。彼らの空気を壊したくない。おっさんは調和に対するリスクなのだ。

それでも、アニメで描かれる街の情景が好きなわたしは劇場へ向かった。そしてできるだけ人様の迷惑にならないよう、場内が暗くなった頃を見計らって、出口に一番近いはじっこの席に潜り込むように座った。

素晴らしい映画だった。おっさんのくせに胸がときめいた。じぶんキモっ、と思ったが、胸のときめきはおっさんでも制御できないので許してやってほしい。やがてラッドウィンプスの情緒的なエンディングテーマが流れ、灯りがついた。

見ると、周りはおっさんだらけだった。

一生キモいおっさんでいてやれ、と思った。

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(c)2019「天気の子」製作委員会
『天気の子』公式サイト

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この記事を書いた人

本サイトの編集長たる猫。ふだんはゲームとかを翻訳している。翻訳タイトルは『Alan Wake』『RUINER』『The Messenger』『Coffee Talk』(ゲーム)『ミック・ジャガー ワイルドライフ』(書籍)『私はゴースト』(字幕)など多数。個人リンク: note/Twitter/Instagram/ポートフォリオ