『ジョーカー』における最大のタブー、そしてチャレンジは、本来薄暗い部屋でひっそり嗜まれるような主題を、純正のエンタメという形でマスに届けたことではないか。

そう考えると、賛否が巻き起こっているのも頷ける。『ジョーカー』は仲間に遊ぼうぜと誘われて行ったら、陰惨な弱い者いじめを延々見せつけられるような映画だ。居心地が悪い。ずっと。こんなものは観たくなかった、という感想が漏れ聞こえてくるのもわかる。そういった映画を観るとき、人はあるていどの心構えが必要だ。

が、『ジョーカー』はみんな大好き『バットマン』のスピンオフで、監督も人気コメディ『ハングオーバー』シリーズで知られるトッド・フィリップスである。もちろん『バットマン』には元々ダークな要素があるし、ヘビーな話になることは十分覚悟していたが、百倍悲壮で重苦しい『タクシードライバー』と二時間みっちり対峙させられるとは、正直思っていなかった。

その『タクシードライバー』と同じく、『ジョーカー』では人が無敵になっていくさまが描かれる。当然そこにはプロセスを加速させるもの――媒介としての「不幸」や「怒り」が必要だ。ましてや、ここで描かれるのは『バットマン』シリーズ最凶の敵ジョーカーの誕生である。最凶の怒りがなければ説得力は生まれない。

そういうわけでテーマ上、『ジョーカー』が不幸のつるべ打ちのような映画になってしまうことは、おそらく避けられなかった。問題はフィクションとして、エンタメとしてのバランスをどう取るかにあった。

弱者を虐げる社会を糾弾したいのなら、リアルを収めたドキュメンタリーを撮るのがてっとりばやい。だが『ジョーカー』はマスへ向けられた、膨大な制作費がかかっている映画だ。エンタメでなければ回収は難しい。リアルは強烈に訴えかけてくるが、あまり銭にならない。なぜならぼくらはみんなリアルな世界に生きていて、誰もがていどの差こそあれ、リアルな世界にぶん殴られたり、つばを吐かれたりした経験があるからだ。

ふだんからリアルの海でもがいているのに、さらにひどいリアルを観るために劇場まで足を運びたくなることは、少なくともわたしの場合あまりない。映画はあくまで娯楽的であってほしい。メディアは他にもあるのだから。

それでも『ジョーカー』が世界的にヒットしているのは、ひとえにホアキン・フェニックスのおかげだろう。ホアキンの演技があったからこそ、『ジョーカー』は現代社会の病巣や不条理をリアルに描いたエンタメという、剣呑な矛盾のバランスを奇跡的に取ることができた。

はっきり言ってホアキンの神がかった演技がなかったら、『ジョーカー』は公開早々、今のような賛否両論ではなく、大きな批判のみに晒されていたかもしれない。不幸や貧困を取り扱った映画は主語が大きくなりがちで、ただでさえ偽善的な香りが漂う。そうした不幸を撮っている人々は、たいてい映画の中の登場人物よりも幸せなものだから。

『ジョーカー』が孕んでいたこうしたリスクは、ホアキンの鬼気迫る演技によってすべて帳消しにされた。エンタメの体を保つことができた。階段でダンスを踊るシーン(なんとアドリブ)をはじめ、ジョーカーの内側で煮え立つ感情をちょっとした仕草や間で伝えるホアキンから、一秒たりとも目が離せない。

その点において『ジョーカー』は極上のエンタメである。俳優という職人が見せる究極の芸を堪能できる。『タクシードライバー』のデ・ニーロ同様、『ジョーカー』はホアキンの演技があったからこそ、おそらく一生語られる映画になった。各賞を総なめにしても不思議はない。

『ジョーカー』はなるほど、ものすごい作品だ。観ていて時間をまったく感じさせなかった。ただ、面白かったかといえば、軽々しくそうとは答えられない。もう一度観たいかと訊かれたら、わたしは正直観たくない。パンドラの箱が開けられたような不安を感じる。

それでも心の中から『ジョーカー』を追い出すことは、きっと一生できないだろう。

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(c)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM &(c)DC Comics
映画『ジョーカー』公式サイト

 

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