(by 安藤エヌ)
新海誠監督の最新作『天気の子』を観た。
『秒速五センチメートル』から『言の葉の庭』、『君の名は。』に至っては劇場に7回ほど足を運び、世界観に没頭し楽しんだ。先日『秒速五センチメートル』を観返してみたのだが、あの頃から作品を通して描きたかっただろう根本が驚くほどに一貫していることを再確認した。
自分が美しいと思えるもの・好きだといえるものを、ワザとして極めて創作に昇華することは、相当のエネルギーを要することと思う。『天気の子』では最新作としての挑戦欲と、今まで描いてきた作品とは違う斬新さを模索している様子が伺えて、最後まで楽しく観させてもらった。
中でも私が『天気の子』で印象に残ったのは、東京に家出してきた少年・帆高と、祈るだけで空を晴れにしてしまう“100%の晴れ女”陽菜、そして彼女の弟である小学生の凪が、異常気象の起こる都内でラブホテルに泊まり、一夜を過ごすシーンだ。
まだあどけない少年少女が、本来なら大人が過ごすべき場所であるラブホテルで、ライトの点滅する豪華な浴槽にはしゃぎ、インスタント食品の自動販売機に目を輝かせ、キングサイズベッドの上で眠る。私たち大人から見るラブホテルというのは、単なる就寝や休憩場所ではない。だけれど街中を歩き回ってくたくたに疲れた3人にとって、誰にも邪魔されない彼らだけのその場所は、まさに楽園であり、天国だったのだ。
備え付けのカラオケで流行りの歌をうたったり、あたたかいカップ麺を食べたりして、真夜中の静まった部屋で陽菜はバスローブを脱ぎ、自分の身体を帆高の前に晒す。これだけ言えばいくらでも不健全な想像が出来るが、その身体には陽菜が晴れ女であることの真実が隠されていた。悲しい運命を知り、号泣する帆高。
「どこ見てんのよ」
「陽菜さんを、見てる」
2人は人知れず自分たちの思いを叫び合う。まるで世界にたった2人しか残されていないかのような夜に、互いの身体の実感を確かめ合って抱擁する。
剥き出しの愛、という言葉はまだ幼い2人には不釣り合いで、更に言えばラブホテルという場所も、彼らが見せる純粋な姿には到底相応しくない。だけれどそこはどうしたって“ラブホテルのベッドの上”であり、2人は自分たちが束の間、心と身体を解放したその場所で、自分たちの胸の内を曝け出すのだ。
このシチュエーションについて語ろうとする時、映画『心が叫びたがってるんだ。』を思い出す。こちらもラブホテルという場所が物語の重要なキーになっていて、終盤にかけて高校生の男女が廃墟のラブホテルで自分の思いの丈をぶつけ合うシーンがある。
そこに大人という存在は介在しない。少年少女が主人公の物語では、意図的に大人を省き、彼らだけの場所と時間を作り出すことによって「若さの疾走」「未熟な感情の先行」という機能を映画にもたらすことが出来るのではないか、と考える。
新海誠監督は『天気の子』で、大人と子ども、という両極の立場を並行して描いた。そして少年少女たちに「若さの疾走」をさせた。ラブホテルを彼らだけの場所にし、そこで帆高に本当の、偽りない自分の気持ちをまっすぐ陽菜にぶつけさせたのだ。
帆高はその後、大人たちの制止を死に物狂いで振り払いながら、明け方に忽然と姿を消した陽菜を追いかけて東京の街を走り抜ける。何者も相手にせず、必死に走り続ける帆高の原動力はきっと、真夜中に陽菜へぶつけた自分の思いがあってこそだろう。
「いやだ、いやだよ陽菜さん。ずっと一緒にいたい」
思わず、いや~若いなぁ!参った!とぐうの音を上げてしまいそうな彼らの姿は、されど私たち大人の心を、そして映画中に登場する様々な大人たちの心も動かしていく。若さゆえの猪突猛進さを愛おしいと思いながら、どうしようもなく憎んでしまう。その姿はもう、10代を通過してしまった私たちには手の届かないものだと知っているからだ。
口を梅干しみたいに酸っぱくして、むずむずさせながら観る映画としては『天気の子』という作品はこれ以上ないほどに適している。心の中に潜んでいた産毛が、一斉に逆立つ感触にも似ている。新海誠監督は、そういったものを描くことに昔から長けていた。今回もバリバリに才が光っていて、その拳(彼の場合は指先か)は唸りを上げていた。
新宿のネオン、客引き、溢れかえったゴミ箱――そして、ラブホテル。大人たちが唾のごとく吐き出したものと猥雑な場所の中で、眩いほどの輝きを放つ少年少女たちを、彼らの物語を、まだご覧になっていない方にはぜひ観てもらいたい。
若さというものが人生に及ぼす、苦さや嬉しさ、全能感やふがいなさ。
そのすべてが喉から手が出るほどに羨ましくなってしまうことだろう。
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(c)2019「天気の子」製作委員会
『天気の子』公式サイト