(by 冬日さつき)
昔、飼っていた犬が子犬を3匹産んだ。1匹はじぶんのかわいいところをよくわかっている強気なメスで、もう1匹はいつもほかの犬とくっついて眠ろうとするこわがりのオス。あともう1匹のオスがどんな性格だったかを思い出せない。彼は生後しばらくして、近くに住む知り合いの家にゆずられていった。
その当時わたしは心のどこかで、どうしてあの1匹だったのだろうと疑問に思っていた。3匹ともまちがいなくかわいかったし、計画した上での出産だったから全員を育てる余裕もあった。それに、この家で愛される幸せを知っていたから、離れることになった1匹に深く同情の気持ちを抱いていたのかもしれない。母がどうして1匹だけを差し出したのかがわからなかったし、知りたくない気持ちもどこかにあった。わたしの知っている限り、母は決して愛情を注ぐ対象に優劣をつけなかったのに、と。
それから何年も経って、どういう話の流れだったかは忘れてしまったけれど、家族でその犬の話になった。わたしは抱いていたかつての疑問を思い出して無意識に身体をぎゅっとかたくしたけれど、母はやさしく「あの子はほかのだれよりも常にじぶんが愛されていたいと思う子だった」と続けた。
母いわく、その犬はじぶんがなでられているところにほかの兄妹犬が近づくとウウ、とうなり、牙を見せたらしい。だから生まれた子犬をゆずってほしいという話があったとき、この子はほかの犬がいない環境で愛される方がいいのかもしれないと考えて、その1匹でよければと提案したのだという。
やっぱりちゃんと理由があったのだと、わたしは心からほっとしていた。
だれかにとっての適した環境がどこであるかを見極めたり、その手助けをしようとしたりするのは、大きな愛がなければいけない。わたしには見えていなかったものが、母には見えていた。
ずっと前からわたしはそれぞれに適した場所というのはかならずどこかに存在するのだと信じてきた。だから、昔からじぶんの環境を変えること自体に恐れはあまりないほうだった。違和感を感じたとき「きっとここはわたしのための場所じゃない」とすんなり切り替えられるマインドは、わたしの人生を軽やかにしてくれた。じぶんのこうした直感めいたものは、記憶に残らなかった思い出の影響も受けているのかもしれないと、母の話を聞きながらぼんやりと考える。
少しのあいだでも、生まれた瞬間から一緒に暮らした犬と離れるのは、さみしいことでもあっただろう。じぶんの気持ちよりも、その犬がきっと適している場所へ送り出した母の気持ち。わたしもそんなふうに愛を持っていられるだろうか。
新しいところで大切に育てられたその犬は、今でも散歩中、ときどき思い出したように母を訪ねて家にくるらしい。チャイム代わりに玄関で大きく吠えて呼ぶのだという。10年以上経ったいまでもそのときの愛が犬の記憶の中にあたたかく残っているのだとしたら、それってちょっといいなあと思った。
(イラスト by kotaro)