【連載/LIFE-(ライフマイナス)】第4回: ノンポリティカルの時代は終わった

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令和に変わるまでの数か月、どこでも平成の特集や総括が行われていた。自分がこの30年で確信しているのは、様々なエンターテインメントにしろ、実際の態度にしろ、ノンポリティカルでいることが難しくなったことだ。

平成はノンポリティカルでいられる時代だった。作品と現実はまったく別物であり、政治や現実から遠ざかる態度が正しいと思われていた。1989年に平成が始まってから、年を重ねるごとにその態度は確かになっていったと思う。

自分が成長するあいだ、政治や歴史から切り離されることがクールな態度だと信じられてきた。たくさんのTV番組やビデオゲーム、アニメや映画とともに育ってきたが、いま子供のころを思い出しても、そのほとんどはノンポリティカルな態度を貫いていた。

多くの表現は現実を活写する意図は少なく、ましてや人種や性といった、いわゆるpolitically correct(この言葉ばかりは、日本語で略してはだめだ)なのかの問題は目を背けたいものだった。当時それは面倒な表現規制の問題と思われ、エンターテインメントの発展を阻害する意見だと認識されていた。自分もこのころは、ノンポリティカルであることがなにを踏みつけているかを気づくこともなかった。

もちろん当時から現実と絡んでいこうとするクリエイティブはあったし、政治と絡もうとした作品もあった。それはメジャーだったかといえば、傍流だったことには違いない。しかしときたまポリティカルなものが目についたとしても、おおよそ露悪的に取り扱われることが多かったと思う。少なくとも自分の実感として、ある時期からポリティカルなもののほとんどは、目を背けたくなるものだと見られていた。

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平成が終わりを迎えるころ、バックラッシュのように、次々とポリティカルな現実と向き合わされる出来事が続いた。それはこれまでのクールな態度が本当に正しかったのかを、疑わせるほどの数だった。

90年代に反社会的なスターだと思われた椎名林檎や、松本人志がいまでは現政権に近くなるなんて、皮肉めいたことが起きた。RADWINPSが“日本を愛する”名目で作った楽曲「HINOMARU」が戦中の軍歌のようだと批判を浴びた。再結成を発表したNUBERGARLのドラマ―、アヒト・イナザワが近隣諸国に対しヘイトの発言をするようになっており、ファンをどよめかせた。

『ドラゴンクエスト』の劇伴を担当していたすぎやまこういちが、排外的な発言を平然と行う杉田水脈などに近づいていた。元号が変わってすぐさま、『ファイナルファンタジー』などで著名なイラストレーター天野喜孝が、安倍晋三首相を武士として描く失笑を招く出来事があった。

ノンポリティカルの無批判な態度が招いた事態のほか、無批判な態度のなかで押しつぶされた人々の言葉も表に上がるようになった。ハリウッドのプロデューサーが起こしたスキャンダルの告発を皮切りに、日本国内でも盛り上がった♯Metooをはじめ、いわゆる多様性に関しての世界的なムーブメントが国内にも波及した。ノンポリティカルな態度で、無意識に踏みつけていたものが何かを白日の下にさらした。

時代が幕を閉じる前に現れたそれらは、これまでに自分が見てきたものはなんだったかを考えなおすのに十分だった。ある現実を見ないようにするノンポリティカルな態度は、クールなものでも何でもなかったのだ。おそらく最初から。

ポップアーティストの「日本を愛する」ことが、漠然と戦前や戦中の日本に向けられたのは、ノンポリティカルな態度の無知や無批判が行きつく先でしかなかった。マイノリティが声を上げたことは、ノンポリティカルな態度がただ自分の立場を疑うこともなかったことを示していた。

きっとこれから、何十年も空白だったポリティカルなテーマと向かい合う時代になるだろう。現実との関係について、毎日のようにどこかでハレーションが起きている。ノンポリティカルの時代は終わった。

(イラスト by 葛西祝

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この記事を書いた人

葛西祝のアバター 葛西祝 ジャンル複合ライティング業者

ジャンル複合ライティング業者。IGN JapanGame Sparkなど各種メディアへ寄稿中。個人リンク: 公式サイト&ポートフォリオ/Twitter/note