『あの日々の話』を観終わった時、なんとなく『マリー・アントワネット』が思い浮かんだ。

ソフィア・コッポラが監督した映画『マリー・アントワネット』は歴史大作のようでいて、14歳で強制的にフランスに嫁がされた少女がヴェルサイユで過ごした青春の物語になっている。

マリーと夫のルイ、そして友人たちが夜通しパーティーをして早朝の風景の中はしゃいでいるシーンを観ると、青春時代の感覚がフラッシュバックしてくる。

例えば、オールで遊んだ帰り、唯一シラフの友人が運転する車に女5人酔っ払いのテンションのまま乗り込んで、爆音でaiko流しながらはしゃいだ記憶とか、新宿歌舞伎町のカラオケ店から始発で帰る時の、靖国通りの横断歩道を他のオール明けの若者たちと一緒になって渡る朝の風景が呼び起こされる。18世紀のフランス王妃と自分を重ねているのは相当ヤバいと思うが、重なっちゃうもんはしょうがない。

ラストシーン、パリに向かう馬車の窓からマリーは朝日に包まれるヴェルサイユの風景を眺め「お別れを言っていたの」と言う。この時のマリーの頭の中には「あの日々」の記憶が映し出されていたのだと思う。

『あの日々の話』は『マリー・アントワネット』同様、過ぎし日の“オール”の感覚を思い出さざるを得ない映画だった。

ストーリーは、ある大学のあるサークルのメンバー9人が飲み会の2次会でカラオケオールする、という話。ほぼ全編、カラオケルームが舞台だ。

男子だけになると彼らは「今日女子とヤレるか」と言う話題で盛り上がり、女子は女子で別室に集まり嫌味を言い合っている。そんな大学生のサークル飲みの話だけで映画1本分になるのか?と思うが、テンポよく進む会話、話が進むにつれ徐々に変わっていく人間関係の形勢、前半に起きるプチ事件の顛末への興味で、飽きることなく100分は過ぎる。

男5人、女4人のキャラクターはそれぞれ「いるいるこんなヤツ」と言いたくなるそこはかとなくイタいメンツで、その中でも若者の中に混じる社会人学生のおじさん「小川さん」が特別チャーミングだった。若者に混じってオールまでしちゃうその絶妙な空気の読めなさが、いそうでいない、ようでやっぱりいそうな感じがする。

でも、この言わば他の学生とは文化圏が違う小川さんがいるおかげで、大学生活に馴染みがなかったり、若者世代以外だったりする観客も置き去りにされることなく、同じカラオケボックスの中にいる感覚を味わうことができるような気がする。

絶妙な会話と空気、そしてザ・大学生のノリは楽しい。

楽しいんだけど……そもそも大学時代にこういうノリにイマイチ馴染めなかった者としては「あー私こういうの微笑ましく見れるようになったんだな」ぐらいのヌル〜い感情で終盤まで鑑賞していた。

しかし、終盤も終盤、カラオケルームに残り朝の倦怠に包まれる男子たちにカラオケ店員が放つ一言に、すっかりグッときてしまった。彼の一言で、この一夜が完全に「あの日々」になったのだ。その瞬間、映画全体が「めっちゃいいやん……」に変わった。

そして、店員さんのセリフは「あの日々」の輝きは「この日々」の真っ只中に居る限り大抵気づけないのだということを私に気づかせた。

早朝の靖国通りを友達とネムイネムイ言いながら渡っている時は「寝て起きてバイト行かなきゃ、ダルい〜」ぐらいしか思ってなかったのに。あの日の白味がかった灰色の景色が宝物みたいな記憶になるなんて。

キラキラした感情に包まれつつ、副作用的に、今思えばすごく変な服着て大学行ってたとか、mixiで変なコミュニティ作ってたとか、V系バンドのライブでバルログ並みに鋭い付け爪のお姉さんが手を広げる(咲く)時爪が顔に刺さったの痛かった、とかこの映画に出てくる人のこと言えないくらい自分もかなりイタい大学生だった記憶がガンガン掘り起こされてくるのが少し辛い。まぁ振り返ればそんな瞬間もプレシャスだったかも。余計なものなどないよね?(SAY YES)

毎度のことながら自分語りばっかりかよ、と思われても仕方ない感想になった。でも本当に『あの日々の話』は「あの日々」の記憶と感覚の蓋を開ける装置のような映画だ。みんな、映画観て「あの日々」の話をすればいいのに。

(C)2018「あの日々の話」製作委員会
映画『あの日々の話』公式サイト

 

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