運び屋イーストウッドの映画を観るということは、イーストウッドを体験するということだ。

こうした特性はイーストウッドが七十歳を過ぎて以降、監督と主演を兼任した作品において顕著に見られる。『ミリオンダラー・ベイビー』しかり、『グラン・トリノ』しかり。演じるのは架空の人物でも、そこに投影されているのはイーストウッドの魂と声そのものであり、“実際に”そのキャラクターの年齢に達した者にしか実感できない、特別な感情や、思いといったものを世に伝えたくなった時、イーストウッドは心に44マグナムを携えて銀幕に帰ってくるのだ。

この『運び屋』もそう。

贖罪の意味と、老いた者の使命をクールに語った『グラン・トリノ』から、実に十年ぶりとなる監督兼主演作。それだけに劇場へ足を運んだ観客たちも、この映画界の生き証人の一挙手一投足を見逃すまい、言葉のひとつひとつを聴き逃すまいと、心を前のめりにしてスクリーンへ臨んでいるように見えた。

客席の年齢層は、齢九十を迎えんとする監督の作品とは思えないほど幅広い。老境の方はイカした晩節の締めくくり方を求め、中年の方は残り約半分の人生の過ごし方について考え、そして若者たちは誰よりも信頼できる先達からの指南を得ようと、その場に集っていたに違いない。

今回イーストウッドが扮するのは、かつて園芸家として名を馳せながら、インターネットに事業をつぶされ、金に困って麻薬の運び屋になる男アール。

たった一日で枯れてしまう花「デイリリー」の栽培に命をかけ、家族のことをほったらかしにして生きてきたアールは、ポンコツのトラックから今風の新車に乗り換え、売りに出されていた家を買い戻し、のんびり余生を送れるだけの金を稼いだように見えてもなお、そうすべき理由を後追いで付け足していくように、運び屋家業を続けていく。

こうして稼いだ汚い金を使い、取り消せない過去を埋め合わせるという体で、人助けに精を出すアールだが、そこに贖罪者が背負って然るべき悲壮感はなく、それどころか新たな人生の春を謳歌しているようにも映る。

同じ罪滅ぼしの物語でありながら、ここが『グラン・トリノ』とは大きく異なる点だろう。アンチヒーロー的だったコワルスキーとは違い、アールは基本的に楽天家で、人間くさい。考えることはあまり得意でなく、流れに任せて麻薬を運び、金を稼ぎ、そのついでに罪を償っていく。すべてが軽い。自身の監視役である悪党に「好きに生きろ」とうそぶき、麻薬カルテルのボスに「組織をやめろ」と助言してしまうほどに。

やがて「何でも買えたが、時間だけは買えなかった」と、すべてを悟ったようにつぶやくアール。

家族を犠牲にしてきたアールの悔恨がじんわりと伝わってくる台詞だが、それと同時に、誰にでも平等な、時間という不可避の脅威に対する、イーストウッドの諦念のようにも響くのである。悲しいけれど。

(c)2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS(BVI)LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC
映画『運び屋』公式サイトはこちら

 

 

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