(by とら猫)
『サスペリア』がリメイクされるらしい。
そういう噂が数年前に広まったとき、大半の映画ファン、というかアルジェントを偏愛する一部の好事家たちは耳を疑ったものだ。私も含めて。
だって、“あんなもの”をリメイクできるのか。
なぜなら『サスペリア』という映画は、そもそも“映画”と呼べるのかも怪しい特異な作品で、端的に言えばその半分はダリオ・アルジェントという監督の狂気、もう半分はゴブリンというロックバンドの狂気でできている。が、リメイク版では当然のごとく、そのアルジェントもゴブリンもいない。
これが通常の映画なら、監督や音楽をすげ替えたくらいでリメイクの障害になることはない。たとえば『13日の金曜日』ならジェイソンという強烈なキャラクター、『恐怖の報酬』なら「ニトロを運ぶ」という刺激的なストーリーがまだ皿の上には残っていて、新しい監督もそうしたネタやシャリを好きに使って、自分らしい新たな寿司を握り上げていけばいい。
が、『サスペリア』ではそれが通じない。
だって本当に“サスペリア”と書かれた皿しか残されていないから。
魔女?そんなものはおまけだ。ガリだ。
そんな創り手の妄想と、情念と、狂気を詰め込んで視覚化したような、合理性なんぞ歯牙にもかけない凶暴な作品のリメイクを、ルカ・グァダニーノは無謀にも引き受けた。
なぜか。ヒントはインタビューの中に隠されていて、グァダニーノはオリジナル版『サスペリア』を「今だから言えるが、子供向けの映画」と評し、「自分はおとぎ話のように魅了された」と語っている。
これはアルジェント版『サスペリア』という映画の本質に関する、ものすごく腑に落ちる説明だ。実際、私が初めて『サスペリア』を観たのも、おそらく中学生くらいの頃だった。当時は今ならクレームの嵐が舞い込んできそうな、凄惨で猥雑なホラー作品を真っ昼間からあっけらかんと放送していて、私は親の職場にあるテレビで、大人たちに囲まれながら『サスペリア』を観た。そしてその極彩色のビジュアルと、呪術的なロックサウンドにすっかり心を奪われてしまった。
グァダニーノはおそらく自身のリメイク版において、こうした体験を再現しようとした。自分もアルジェントのように、理屈抜きで観る者を圧倒できるか試したくなったのではないかと、私なんかは愚考する。
そう考えると、この一見オリジナルとはまったく別物の新しい『サスペリア』が、実のところ、本質的には恐ろしいまでに『サスペリア』であることに気づく。
ストーリーが難解なのは意図的だろう。細かい辻褄合わせは、映画のあと大人たちで勝手にやってくれという姿勢だ。この辺りにも『サスペリア』の精神を感じるが、それよりもグァダニーノが大切にしたのは、本作を初めて観るという、その二度と戻ってこない一瞬に、オーディエンスの感情を震撼させ、サブカルやホラーへの秘めたる情愛を覚醒させることだったのではないか。
その心意気は十二分に体現されている。
ダンスホールにおける序盤の惨劇シーンは独創的かつ挑戦的で、この段階で耐えられない映画ファンは今すぐ立ち去れと警告しているようでもある。だが、この踏み絵を乗り越えた先には、オリジナル版を凌駕する狂気と創意と芸術性がとんでもないレベルで暴走する、こっち側の者にとっては垂涎のごちそう、あっち側の者にとっては悪趣味なポルノでしかない、観る者の感受性が裁かれる壮絶なラスト数十分が待っている。
ただ、全体的に長い。
もっとも、悲しいかな私はもう世間的には大人だ。グァダニーノはきっと本作を、若いオーディエンスにこそ評価してほしいと思っているはずで、オリジナル版『サスペリア』を観てアルジェントすげえ!となった少年少女がいたように、グァダニーノすげえ!と心酔する将来の映画監督が増えたのであれば、その時点でこのリメイク版『サスペリア』は意義深い傑作なのだろう。
だからこそ、レーティングによって本作の観客層を制限してしまうのは罪深い、とも思ったりする。
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