【アートエッセイ】プーシキン美術館展~旅するフランス風景画展

  • URLをコピーしました!

風景画。この言葉を目にして、頭に思い浮かべるものは?

もちろん正解なぞ存在しない。ある人にとってはゴーギャンが描いた原色のタヒチ。あるいはルノアールの目に眩しい光溢れる緑。たとえば雪舟の水墨画。またはミレーが描いた農民のリアルな姿と遙かなる平原。あるいは何人もの画家がそれぞれ美しく描きあげたフォンテーヌブローの森。印象派の語源とされているモネの『印象・日の出』を思い浮かべる方もいるだろう。

その程度の知識で、わたしは『プーシキン美術館展~旅するフランス風景画』 展を訪れた。そして一歩足を踏みいれたとたん、目からうろこがぽろりと。風景は神話や聖書の物語などの背景として描かれてきたが、近代になるまで風景は愛でる対象ではなかったとの説明文が展示してあったのだ。自然は観賞するものではなく、闘う相手、それも手強い敵だったから、と。それでも十七世紀あたりから観賞する余裕が出てきて、それにともない風景画の歴史も始まり、それが十九世紀のフランスでみごとに花開いた。その歩みを五感で感じることができる贅沢な美術展だった。

わたし個人としては印象派は美しいが、毒がなさすぎて物足りないとも感じる。それよりは印象派前夜の『夜のパリ』をはじめとした一連の作品が、淡い毒が感じられて好印象だった。

後半絵を眺めながら思考はあちこちへ飛び、そもそもアートとはなんぞや、と考えはじめた。アートを芸術ならしめているものはなんなのか、と。そう簡単に答えの見つかる命題ではないだろうが、わたしは鑑賞する一個人の感性が、時代、国、なにもかもを超越してアーティストの感性と共鳴することではないかと思う。そう信じられる一瞬はたしかにあるはずと。

そしてそれは絵画にかぎらず、音楽でも、オペラでも、バレエでも、映画でも、そして手前味噌になるが、文学でも起こりえるはずと信じている。英語で書かれた文のリズムが、響きが、あるいは内容が、日本で生まれ育ったわたしの内奥のなにかと共鳴する瞬間はある。これまで二十年以上フィクションの翻訳を生業にしてきたが、残念ながらまだまた駆け出しで、本を読むのも、文章を書くのもすべて勉強の身だし、それは未来永劫変わらない。それでも、あるいはだからこそ、共鳴したと感じる一瞬を少しでも長らえるために、毎日文章を紡いでいるのかもしれない。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

本業はフィクションの文芸翻訳者。翻訳書『北極がなくなる日』『奥方は名探偵』『だれがコマドリを殺したのか?』など多数。

個人リンク: Twitter