【猫エッセイ】猫の国へようこそ

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俺は猫の国にいる。

もちろん当初は人の国にいて、今だって住まい自体は以前と何ら変わりないが、気がつくと奇怪にも、自宅が猫の国に“切り替わって”いた。と言っても、別にすべての語尾に「ニャン」をつけてしゃべるとか、一日三食カリカリを供されるとか、「ニャンとも清潔トイレ」で用を足さなければならない、といった特別な縛りはない。ただ、唯一、すべての頂点に猫が立っているという点において、そこはまさしく猫の国であり、人の国とは一線を画しているのだ。

実のところ、俺と似たような境遇に置かれているニンゲン(猫の国では人の国の人間とを区別するため、一般的にこう表記される)は他にもいて、こうしたニンゲンたちは冒頭で述べたように、自身の住まいが“人の国”から“猫の国”へと切り替わってしまうことを“転化”と呼んでいる。厄介なのはこの“転化”が、例えばわが家は先週の金曜の午後十五時をもって猫の国となりました、といったような明確な境界線を持っておらず、ゆっくりと、段階的に進んでいくことであり、そのため転化に晒されている当のニンゲンたちですら周囲で転化が起きていることを知らず、気づいた頃には、あらよっと、猫の国への転化が完了しているのである。

そして一度猫の国に転化した住まいが、人の国へ逆転化するケースはほとんど見られない。

とは言え、先に述べたように、そこが人の国であろうが猫の国であろうが、ニンゲンとしての基本的な営みは何も変わらない。アメリカへ引っ越したからと言って、寝て、起きて、食べて、働くといったサイクルそのものは変化しないのと同じだ。

もっとも、郷に入っては郷に従え。異国でストレスなく暮らすことの秘訣が現地に溶け込んでしまうことであるように、猫の国でも、人の国の常識を捨て去らなければならない局面に出くわすことは珍しくない。

例えばソファだ。

人の国では一般的にリビングなどに配置される家具として扱われ、そこへどっかりと腰を下ろして『ツイン・ピークス リミテッド・イベント・シリーズ』を一気観したり、トビウオになって泳いでいる自分を夢想したりするために使われるのが通常だろう。俺も以前は、ソファとはそういうものだと思っていた。

が、猫の国ではちがう。ソファは“爪とぎ”の一種であり、ニンゲンはその爪とぎに「座らせてもらっている」。猫の国にいると、人間だった頃の自分がいかに視野狭窄的だったかを思い知らされることが多いが、このソファもそうだ。んが、あらためて猫の視点に立ってみると、確かにこのソファという家具は実に利便性に優れた、メンバー共有型の爪とぎであることに気づかされる。

まずもって、ソファカバーの多くは布製であり、猫の爪が繊維のスキマに引っかかって、研ぎぐあい、いわば“爪とぎフィール”がすこぶるよろしい。なんかこう「オレ爪といだ」って気分がすっごいする。もちろん俺は腐ってもニンゲンだから、ソファで爪を研いだことは(今のところ)一度もないし、爪に関しては今もニンゲン用の爪切りを使わさせて頂いているので、あくまでも観察から導かれた推論にすぎないのだが、例えば市販の爪とぎというものはたいてい、ニンゲンの導線のジャマにならないよう、部屋の片隅に置かれていることが多い。

一方ソファというものは、ニンゲンにとってホームエンタテインメントの拠点であるため、通常は部屋の中央にでんと鎮座ましましている。そのため猫にとっては、わざわざ遠くの爪とぎまで足を延ばさずとも、その途中にある、かつ爪とぎ感グンバツのソファで爪をといでしまったほうが満足度が高く、かつ時間の節約にもなるというわけだ。

それに広大な爪とぎエリアを有するソファであれば、お気に入りの爪とぎゾーンが他の猫と重複することもなく、誤って他の猫の爪とぎエリアを研いでしまい、なんというか、うっかり人様のパンツを履いてしまったようなモヤモヤ感、およびそれに伴うストレスもためなくて済む。

問題があるとすれば、猫が爪を研ぐことよってソファがどんどん傷んでいくことだ。滑らかなソファカバーの生地がほつれ、糸がびょーんと飛び出して情けないことになるし、俺も正直、以前はそうしたソファを見るにつけ悲しくなり、防御のための布を巻いてみるなど抵抗を試みたことはあった。

だが、結局のところ、ここは猫の国なのだ。ヒエラルキーの頂点に君臨するのはあくまでも猫であり、ニンゲンはそこに隷属する間借り人でしかない。

ニンゲンはその主たる猫のルールに従って暮らすしかなく、いくら布を巻いて抵抗を試みたところで布を引きはがされてしまえば無意味だし、やがてそんないたちごっこに疲れ果て、諦めがつき、今ではおかげさまでソファが巨大な爪とぎにしか見えなくなった。

むしろ、さっさとペピィでソファを売り出すべきだ、とさえ思っている。

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イラスト by (c) Yumi Imamura

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この記事を書いた人

本サイトの編集長たる猫。ふだんはゲームとかを翻訳している。翻訳タイトルは『Alan Wake』『RUINER』『The Messenger』『Coffee Talk』(ゲーム)『ミック・ジャガー ワイルドライフ』(書籍)『私はゴースト』(字幕)など多数。個人リンク: note/Twitter/Instagram/ポートフォリオ