人は正義や多勢の支持という傘を得た時、非常に残酷な生き物になる。そう思うことが最近非常に多くなりました。TwitterをはじめとするSNSで巻き起こる過度な炎上騒動もそうですが、私自身にも経験があります。

仕事でとある会議に参加した時のこと。そのやり方がとても気に食わなかった私は、企画者を不必要に攻撃してしまったんですね。

「間違っている、本当に効率が悪い!!」と。

私を支持してくれる同僚がたくさんいたために、勢いがついてしまったわけです。結果、方針そのものは変わりましたが、その亀裂が埋まることはありませんでした。とても反省しています。

正義の名の下に暴力を正当化する人間心理を描いた作品として、コメディ映画の『スーパー!』があります。この作品では、彼女をドラッグバイヤーに奪われたことをきっかけとして“神の啓示”を受けた主人公が、自作のスーツに身を包み、お手製スーパーヒーローとして正義を執行していきます。当然、冴えない一般市民である彼に超能力などはありません。手にしているレンチを振り回して、町の悪漢をアメリカンコミックのような描写で退治する姿は非常にコミカル。

ところが、物語が進むごとに彼の正義はエスカレートしていきます。神に許されたという使命感が行き過ぎた結果、彼は列を横入りするカップルをレンチで殴りとばしてしまいます。

ここまでくれば単なるイかれた狂人、このシーンを契機として私たち観客は彼の行動の是非を批評せざるを得なくなるわけです。悪人を懲らしめるという行為そのものは一意に正しいといえるのか、この映画ではじめて考えさせられました。

一方で『ナイト・クローラー』では暴力を支持する観客の方が強く意識されています。事件現場に急行し、撮影した映像をテレビ局に売る報道パパラッチとなった男が、より刺激的な映像を求めて常軌を逸していくスリラームービーです。

次第に違法行為にも手を染めるようになる主人公は、過激な映像の数々は視聴者である私たちが求めるからこそ供給すると語ります。供述の際に、監視カメラというエクスキュースを通して彼がこちら側を覗き込む演出は、私たちがこの映画を外から楽しんでしまっている自分自身に気づかされて思わずゾッとしました。

観客の存在を映画という受動的な媒体で印象付ける方法は、POV方式(登場人物の視点と映画の画面が一致している撮影方式)との親和性が非常に高いでしょう。

特に『ガール・ライク・ハー』ほど、この撮影方式が活きている作品はないように思います。本作はいじめを取り扱った映画の中でも非常に特異な作品。過去にNetflixから配信されていましたが、現在は非公開となっています。

物語はジェシカという女子高生が自殺を図るところから始まります。たまたま学校に取材に来ていた作家のエイミーは、この事件の全貌を明かそうと学内で調査を進めます。一方で、ジェシカと親密な関係にあるブライアンは、隠しカメラをジェシカの服に取り付けていました。一つの小さなカメラによって、酷いいじめ行為の数々がもれなく記録されていたのです。

この映像により、いじめはこの学校の人気者として有名なエイブリーの手によって行われていたことがわかります。もちろん私たちは録画された行為の数々を、隠しカメラというエクスキュースを通して間近から観ることになるのですが、本作ではこの映像が劇中でもいじめの記録映像として共有されていきます。つまり、私たちが観ていた映画そのものを、私たちと同じように映画の登場人物たちが観るという二重構造をとるわけです。

エイブリーが犯人だとわかっても、エイミーたちは必要以上に彼女のことを攻撃したりはしません。では、どういった行動をして彼女を正せばよいのでしょうか。

『ガール・ライク・ハー』では、キャストも私たちと同様に本作の視聴者の1人です。彼らがこの映画を見て何を思うか、この演出効果がどういった結末を形作るかは本作を何とかして視聴し、確かめていただきたいところ。これは人に過ちを犯させないためにも非常に画期的な方法といえるでしょう。

なにより、本作は私にとっていい薬になりましたからね。

(c) Fine Films, (c) IFC Midnight, (c) 2013 BOLD FILMS PRODUCITONS, LLC., (c) ParkSide Releasing

 

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あでゆ

自然言語屋。プログラミング言語屋。器用貧乏に色々。
第5回星新一賞・入賞。公式サイトはこちらから
連載エッセイ:隠れ名画のすゝめ