~落語家の麦茶~

■麦茶、すぐなくなる■
「麦茶もうない、もうだめだ」

2018年、夏。行ってしまった、平成ラストサマー。
一体どれくらいの家庭でこのやりとりが繰り返されたのか、考えるだけで天文学的な気持ちになります。水出し麦茶というものは、どうして「飲みたい今」と「麦茶完成の瞬間」があんなにもかけ離れているのでしょうか。そして、いったいどれだけの人間がこの夏、麦茶完成を待つことなく「なんとなく茶色い気がする水」に氷を放り込んで飲み干したのでしょうか。考えるだけで無量大数的な気持ちになります。麦茶が飲みたい。今すぐに。……そんなアナタの願い、叶います。そう。家にスローな落語家がいれば。

■落語家と麦茶■
配偶者が落語家です。そうです、あの落語家です。
そう……わたしも結婚して知ったのですが。落語家というのは「めちゃくちゃ麦茶をつくるのが上手い」のです!!!!!! え? 麦茶つくるのに上手いも下手もないだろう? いやいや、違うんです。我が配偶者をはじめとする落語家は、「瞬時に丁度いい濃さの麦茶をつくる能力」に秀でているのです!! ……なんじゃそりゃ?

■前座《ぜんざ》のおしごと■
なぜ、落語家が麦茶をつくることに長けているのか。それは、落語家というのが現代日本において非常に珍しい徒弟《ギルド》制度に基づいて存在している職業であるということと切っても切り離せません。徒弟制度。つまり、落語家になるには必ず【師匠】を見つけて弟子入りしなくてはならない……そして、ほとんどの場合は約4年~5年間、前座《ぜんざ》として寄席や落語会の雑用をしなくては落語家になることができないのです。

前座《ぜんざ》、二つ目《ふたつめ》、真打ち《しんうち》。落語界にはこの身分制度が厳然として存在しています。今どの身分にいるのかによって、ギャラや仕事内容が大きく変わってくるようです。配偶者は数年前に二つ目《ふたつめ》という身分になりました。羽織が着られるようになったり、自分の裁量でお仕事を請け負えるようになったりと色々とありますが、一番大きいのが毎日通っていた寄席での楽屋仕事がなくなることでした。結婚前、未来の配偶者が前座さんの頃は365日中だいたい360日前後はこの楽屋仕事のために出勤をしていて、かなり大変そうでした。

では、この楽屋仕事というのはいったい何なのか?

それは。
寄席に出演する師匠がたにお茶を出したり、着物の着付けをお手伝いしたり、寄席のお囃子の手伝いをしたりといったまさに『雑用のオールラウンダー』。特に『お茶出し』という文字通り『お茶を出す仕事』が、前座になって一番最初に仕込まれることなのだと聞きました。そして夏になると楽屋では麦茶が提供されるようになります。……そうです、落語家の卵である前座たちは代わる代わる出演する何十人もの師匠がたに麦茶を出して出して出しまくるのだそうです。そして、家庭と同じく……楽屋でも麦茶っていうやつは、瞬く間になくなってしまう。

「でも、麦茶はすぐに作れるから」

我が家の落語家はそう言いました。「何言ってんだこいつ」、と私は思いました。麦茶というのは、煮出せば冷ますまで時間がかかり、水出しにすれば30分は待たないと味がない。そういう飲み物じゃないか。しかし、配偶者は言いました。

「違うんだよ、カルピスみたいに作ればいいんだって」

■楽屋の麦茶~30秒くらいで飲めるちょうどいい麦茶~■
①ポットに入れた麦茶パックに沸騰したお湯を20CCほどかけて、30秒ほどポットをガーッと振る
②とても濃い麦茶の汁(原液)ができるので、そこに水を注ぐ
③飲めるくらいの濃さの麦茶が完成

なにこれ、すごい簡単。
「すごい。知恵そのものじゃん」
私は感激しました。なんだよ、『麦茶の原液』とかいう概念。新世界開けちゃったよ。……感動に打ち震える私に、配偶者は得意げに微笑みました。「じゃあ、これからは麦茶は俺が作るね」と。
……そういうわけで、我が家では麦茶を作るのは我が配偶者である落語家くんのお仕事です。やっと前座を抜けて楽屋仕事がなくなったというのに、すまん。

みなさんもぜひ「今すぐ麦茶が飲みたい!」というときに『落語家の麦茶』を思い出してみてください。

※この麦茶の作り方、某ガッテンな番組で「美味しい麦茶の作り方」として紹介されていたそうです。手早いだけでなく旨いとは。楽屋の麦茶、恐るべし。

蛙田あめこ

小説書きです。蛙が好き。落語も好き。食べることや映画も好き。
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連載エッセイ:スローな落語家と暮らしてる