~泣くことに気づく『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』~

昨年からの#MeToo、そして性や人種、障害の多様性が語られる現在。この流れで自分が注目しているのは、むしろ既存の社会的な価値で優位な立場である男性だ。がらがらと旧来からの価値が崩壊をはじめるとき、優位な立場だったはずの人間のひとりひとりが何をもって自意識を保っていたのかがはっきりしていく。

自分もその立場である。だからみんな自意識をどうしているのかを気に掛ける。だけど現実は思った以上に旧来からの価値に支配されているようだ。#MeTooや多様性の流れに対して矛盾を探り、「お前たちだって変わらない」と相対化し、無化しようとする論法を駆使する人間をいつも目にするからだ。

日本語のインターネットやSNSを見れば、一見議論に映る言葉を目にするだろう。だけどほとんどが論説の形をとった嗚咽である。旧来の価値が崩れゆく現実に耐えられず、自分が泣いていることに気づくことすら出来ない。そこに議論はない。ただぶるぶると震え、自分を保証していた社会的な価値が崩壊したとき、何もないことを認められない嗚咽にすぎない。

男性と女性、どちらが本当に上だったのだろうか? 身体能力か。知性か。社会的な立場か。旧来からの価値が機能していた1973年、アメリカのテニスで、性差を見世物にした試合が実現した。当時29歳の女子テニスチャンピオンのビリー・ジーン・キングと、元男子チャンピオンの55歳の中年男性ボビー・リッグスのマッチメイク。「見世物」と書けば露悪的だけど、この試合には純粋な競技性と別のテーマが含まれていた。

伝説の試合を2018年に再生させた『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』は、そうしたテーマをそのまま映す。ビリーが闘っていたのはプロテニス選手としての女性としての権利だけではなかった。彼女は同性愛者だった。女子テニスをけん引するとともにLGBTQ+コミュニティの代表者としても評価された。そう、セクシャルマイノリティの闘いというテーマも持つ試合だったのだ。

「ぼくたちはいつの日にか自由に誰かを愛することができるだろう」本作の最後、同性愛者であるファッションデザイナーのテッド・ティンリングはビリーにそう話す。この闘いがいま映画化される意味とは、まさにそれが認められない立場だった人たちの闘いが現代で起きていることそのものだからだ。

でも、最初から自由に誰かを愛する、いや所有するみたいなことができた立場の人間は? 自分にとって『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』が深みを増すのは、社会的な価値や立場を受けられない女性やLGBTQ+の闘いであった、と同時に社会的な価値を失った男性についての映画でもあることだ。

そう、スティーブ・カレル演じるボビー・リッグスの物語である。彼は名誉あるテニス選手という確かな価値を失い、ギャンブルに溺れる。心の内では再び表舞台に立ち、注目を集めたいと願っている。そこでビリーと闘うアイディアを思いつくというあらすじだ。

しかし映画の持つ現代的な多様性の価値のテーマを加味すると、ボビーのキャラクターは単なるビリーが倒すべき相手ということに留まらない。旧来の社会的な価値が崩壊しつつあり、男性の自意識の空虚さを巧みに描く現代性がある。

ボビー・リッグスはさまざまなコスプレや意匠を凝らして、女性蔑視や差別発言をテレビの中で繰り返す。ただしこれはトラッシュ・トーク(格闘技やプロレスで観客の注目を集めるためにわざと過激な発言をすること)に過ぎない。すべては観衆の注目を集めるためだ。

しかし過剰なほどの演出やトラッシュトークの裏側には、自意識が崩れた空虚が広がっている。女性として、同性愛者として闘うビリーの物語のコントラストで描写されるボビーのシークエンスは、旧来の価値を失った男という物語性が強調される。

本作がジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリスの夫婦ふたりで監督されていることを考えれば意味深い。本作が女性やセクシャルマイノリティの闘いに留まらず、その状況の中の男性について言及されることでより現代的な物語性を持つからだ。旧来の立場や価値が崩れはじめる中で、男性の側は何をもって自分を保つのか?

ボビーを演じるスティーブ・カレルの存在も大きい。『40歳の童貞男』や『ラブ・アゲイン』など、俗流の男性の価値観から離れた(いわゆるモテない人だったり、俗な男性的な価値観から背を向けたオタクのような)人物を演じてきた。ボビー・リッグスは栄光も名声も得た強者のはずだ。だがその価値を失いつつある空虚さを彼は巧みに演じる。

監督夫婦の夫・ジョナサン・デイトン監督はおそらくは社会的な価値が剥ぎ取られた日常の何も残らなさに気づいている。ボビー・リッグスはこの映画の中で涙を流すことはないが、カレルの演技とデイトン監督の演出は彼がどこかで泣いていることを表現する。

『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』は社会的な価値が崩れ去ったとき、自身を成立させるものは何もなくなり、泣く男の映画である。そして真正面から新時代の価値であるビリーと闘い、やがて相手を認めることで泣き止むのだ。

(c) 20世紀フォックス

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