「雨やどりはすべり台の下で」幼いころにしか見えないふしぎな世界というのは存在すると思う。

それはなにもファンタジーのように竜やエルフがあらわれるような世界ではなく、たとえばぼくの場合だと小学校の頃、通学路には薄暗い林があって、その中にはおんぼろの家が建っていた。
人が住んでいるかもわからないけれどなかなか大きな家で、子どもが走り回るには充分過ぎるくらいの広さの敷地があり、「おおきなヘビがいた」「ゆうれいをみた」なんてうわさを聞きつけ、この近所に住む子どもたちはここで肝を試しあったものだった。
あのころのぼくらにとってあの家は、正体不明のおそろしげな、だけどわくわくするふしぎな世界だったのだ。

「ありゃ、無くなっている」

先日十年ほどぶりにその近所を通ると、その林と家は見るかげもなく、かつてのふしぎな世界はおしゃれな集合住宅地になっていた。

「むかしはあんなにステキなおんぼろ屋敷だったのに! 住みやすそうになっちゃってまあ!」

ぼくは誰にともなくつぶやき、なんとなく嘆きながらその場をあとにした。
とにもかくにも、ぼくが言いたい、幼いころにしか見えないふしぎな世界というのはそういうもので、大人からしたらとるに足らないものだとしても、子どもから見るとまったくちがうものとして映るのである。

雨やどりはすべり台の下で』は、児童書作家である岡田淳氏の作品である。挿絵は絵本作家の伊勢英子氏。
その作品の中の子どもたちのふしぎな世界への入り口は、ぼくのように「場所」でなく「人」であった。

その名も「雨森さん」である。
この字で、あまもりさん、と読む。

物語は、とある団地に住む八人の子どもたちが、団地の公園で遊んでいたときに、急にふり出した雨から逃れるためにみんなでもぐりこんだ大きなすべり台の下で、この雨森さんについて話し出すところから始まる。

雨森さんはふしぎな人だ。
なんてったって、「きっとあの人は魔法使いだ」なんてうわさされているくらいなのである。
(この急な雨も、雨森さんが降らしたんだと子どもたちは話し出す)

六十歳くらいのめがねをかけた、パイプを愛用する、無口で人づきあいの少ない、それゆえになぞ多きおじさんなのだが、この団地に住む子どもたちは全員、このおじさんに関わる魔法としか思えないふしぎな、だけどやさしいエピソードを持っており、それぞれの子が各章に一人ずつ話し手となって話をしてくれる。
それはたしかに雨森さんがしたという確証はない話ばかりなのだけれど、子どもたちが「そうにちがいない」と思ってしまうくらい雨森さんはふしぎな人で、読者は話しをしていく子どもたちがそうなっていくのと同じように、もっとこのなぞ多きおじさんのことが知りたくなってしまうのである。

そしてもし読者が大人ならば「この雨森さんは、ひょっとしたらこういう理由でこの団地に住むようになって、こういう事情があって、このような人になったのではないか」とある程度推測できるエピソードがあらわれるのだが、この子どもたちにはすこしむずかしい話かもしれない。
でも子どもだって馬鹿じゃない。むずかしいことはわからないかもしれないけど、だいじなことはわかっていたりするものである。
「雨森さんはきっとわるい人じゃない」彼等は、すべり台の下でうなずき合う。
そして、雨森さんが明日、この団地を出て行ってしまう、という話を聞き、子どもたちはとある計画を立てるのだ。

なにも知らない周囲の大人から見ると、雨森さんは取るに足りないふつうの人のひとりかもしれない。事実、大人のぼくは、このおじさんの人生をなんとなく想像できた。
だけど子どもたちからすれば、雨森さんはふしぎなおじさんなのである。
そして、このおじさんが本当に魔法使いなのかどうかは、最後まで読んでもわからない。
あの家がいったいなんだったのか今もわからないぼくと同じように、ふしぎのまま去っていくのである。

このものがたりは、そんな、幼いころに見えていたふしぎな世界をやさしく思い出させてくれる作品だ。
ぜひみなさまも一度手に取ってあのころの世界を味わってみてはいかがだろうか。

でも、あの家は、雨森さんは、本当はなんだったのだろう。
うーん、知りたいような、知りたくないような……。

笹原智也

本と映画と音楽と酒が好き。楽しい文章を目指します。
連載エッセイ:ちるどれんずぶっく・ふぉーえばー
遊び/ギター/アウトドア