腹が減ったら食う。

眠くなったら寝る。

ムカついたらぶん殴る。

できればそうやって本能の赴くまま、六十年代のロックスターのように生きていきたいと思うが、実際はそうは問屋が卸さないのが人生の厳しいところだ。なかにはエアロスミスというグループのスティーヴン・タイラーという歌い手のように、ただ「爆発して楽しいから」というピュアーなモチベーションに駆られ、ホテルの備品たるテレビを上階の客室から、はるか眼下のプールめがけてばんばん投げ込んでもお咎めなし、といった特例もあったようだが、一般的にはそんな暴挙に及べば即座に通報され、エスエヌエスで醜態を晒されたあげく職を失い、河原で拾った小石を売って細々と食いつないでいく憂き目にあう。

なぜかというと、人間が社会的な生き物だからだ。

象のような巨体も、猫のような俊敏さも、鷹のような鋭い爪も持ち合わせていない我々人間は、弱肉強食の野生界で生き残っていくために、ほかの動物たちにはない特性――社会性を身につけた。すなわち個としてはライオンに勝てっこないが、個が支え合うことによって猛獣をも打ち倒せる力を手に入れたのである。

そのため人間はこの世におぎゃんと生を受けた瞬間から、社会の一員として生きていくことを強制的に押しつけられ、普通はこれを拒むことはできない。せいぜい若気の至りから反社会的な行動、例えば自販機のコイン挿入口に小石を詰めて反社会的な笑みを浮かべるとか、道端の畑のとうもろこしを爆竹で吹っ飛ばして反社会的なポップコーンを作成するとかいった愚行に及ぶのが関の山で、少なくとも成人してからそんなことが許されるのは、やはり先のロックスターくらいで、多くの者は「いい大人がバカじゃん」と毛虫を見るような目で一蹴され、すごすごと自分の巣へ帰っていく。

社会はそうやって保たれている。それぞれの個が巨大なスライムのように融合し、単体の集合意識と化して、その健全性を脅かす危険分子に目を光らせている。そして有事の際には暗黙の了解とばかりに、皆がテヨゥトーリアッテ(フレディ)元凶を取り除くのである。

『スリー・ビルボード』の主人公ミルドレッドもかつてはこうした集合体の一部であることを受け入れ、安穏と暮らしていたものと思われるが、最愛の娘がむごたらしく殺され、社会の番兵たる警察の助力が得られないことを悟った瞬間、自分以外の存在はすべて敵とみなし――ロックスターになった。

それからの彼女はまさに怖いものなしで、ただただ己の本能の命ずるまま、娘を殺した真犯人を求めて突っ走っていく。息子がいじめに遭えば(そもそも自身が設置した看板のせいだという事実は当然、棚に上げて)オンボロ車で学校へ乗りつけ、いじめっ子たちを一ミリの情けも見せずにボコボコにする。訳知り顔で報道するマスコミに出くわせば中指を突き立て、放送コードに引っかかりまくりの毒を一気呵成に浴びせて去っていく。

こうしたミルドレッドの行動は制御装置がイカれたターミネーターのように危険であり、刹那的で無謀でしかないが、彼女の激しい怒りが、本来自分を守ってくれてしかるべき社会から黙殺され、逆に排除されるという理不尽さを着火点としているがゆえに共感できる。同時にある種の爽快感も覚えてしまうのは、我々が社会の一員であることの息苦しさも自覚しているという証だろう。

何物にも縛られずに暴れまくり、建物などの物理的な存在だけでなく、人間を人間たらしめている根本的な概念すらもぶち壊してみせるミルドレッドの姿は、悲劇的だが痛快だ。すかっとする。声をからして「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」を歌いたくなる。一生社会の枠内に留まり続けるしかない我々常人たちの満たされない思いを、その拳を通じて解き放っている時の彼女は、まさしくヒーローなのだ。

もちろん、結果として多くの代償を支払わされることにもなるが、その一方で救われる魂もあるという込み入った皮肉を見せつけられると、何が正しいのか分からなくなってくる。

今後生きていくことの理不尽に牙を剥きたくなった時はまず、『スリー・ビルボード』を座して鑑賞するようにしたい。

イラスト by (c) Yumi Imamura

本サイトの編集長を務める、猫。普段はフリーの翻訳屋さん。
連載エッセイ:映画ホルマリン漬け猫の国
翻訳タイトル:『RUINER』『Owlboy』(ゲーム)『ミック・ジャガー ワイルドライフ』(書籍)『私はゴースト』(字幕)など。